場所 京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字竜光53-2
何ヶ所か移転した山城国府の一つです。
JR山崎駅と阪急大山崎駅の間にあります。
説明板。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191211/14/kanezane2/96/67/j/o0400030014669134758.jpg?caw=800)
山城国府跡(河陽国府跡)・平安時代
山城国府は奈良時代には今日の相楽郡山城町にあり、それが平安時代に京都市太秦付近に移転したといわれている。
そして、長岡京廃都後まもない延暦16年(797)に長岡京南の地に移され、さらに貞観3年(861)になって当地付近に移されたものと考えられている。
もともと、この付近には奈良時代に行基建立の山崎院及び山崎橋があったと考えられ、歴史的にみると古くから開けた交通の要衝であった。
平安時代になると山陽道(現西国街道)に馬が常時三十疋もいるという立派な駅が設けられた。
その駅が後に嵯峨天皇の河陽離宮となり、天皇はここを基点として水無瀬野・交野方面に度々遊猟に出かけたといわれている。
しかし、天皇の死後離宮の利用がなくなり、荒れるに任せていたため、山城国司の申し出によって河川交通・陸上交通の便がいい河陽離宮を国府に転用したのであった。
この当時、国府付近には相応寺・関戸院。山城院等の諸施設が建ち並び、交通の中心である山崎津・山崎橋も真近かにあったと考えられる。
また、この頃町の中に造り酒屋が多くあったという記録も見られ、関西でも有数の生産量を誇っていたようである。
この酒を平安貴族たちや武者たちも飲んでいたことであろう。
このように当地付近は数多くの施設や数百件の家々が建ちひしめく市街地を形成し、平安時代を通じて我国有数の交易都市として発展したのである。
昭和59年11月11日
大山崎町教育委員会
国府付近諸施設配置想定図。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191211/14/kanezane2/b9/1d/j/o0300040014669134760.jpg?caw=800)
国府は、相楽郡(京都府山城町上狛)→葛野郡→乙訓郡(797年、長岡京南)→乙訓郡(和名類聚抄に、河陽離宮。861年、大山崎町大山崎)の順に変遷した。
現在国府跡にはお食事処「国府」があります。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191211/14/kanezane2/ee/5e/j/o0300040014669134764.jpg?caw=800)
山城国内を流れる桂川・鴨川・宇治川・木津川が一つになるこの地は交通の便が良かったのでしょう。
しかし、摂津国との国境に至近距離の場所であり、ちょっと端っこ過ぎますね。