海老名氏館(相模国) | 三日月の館

三日月の館

yahoo!ブログのアメブロ版です。

登城日 2010年 9月19日(日)晴
難易度 ☆
場所   神奈川県海老名市河原口

 

以前、兵庫県相生市にある大島城の記事でご紹介した海老名氏。

イメージ 1


村上源氏の流れを汲む海老名氏の故地を訪ねてきました。
 

【海老名氏について】

海老名氏は、源有兼が永久元年(1113)から4年間相模守として当地に在任し、その当時武蔵・相模の武士団であった横山氏と婚姻関係を結び、生まれた季兼が在地名の海老名氏を名乗ったとされています。

海老名氏は「吾妻鏡」や「曾我物語」にも登場する有名な武将です。

海老名氏はのちに海老名氏、本間氏、国分氏、下海老名氏、荻野氏に分家します。

海老名氏は、和田義盛の乱で和田方について敗北し、大きく勢力をそがれます。

そして永享の乱で足利持氏方についたため本家は滅んだとされます。

(海老名市HPより) 

 

海老名氏館へは、相鉄・小田急・JR海老名駅西口から向かいます。
東口と比べるとあまりの格差。

イメージ 2

のどかな風景が広がっています。

イメージ 3

田んぼの真ん中に建つリコーのビルがあまりにも不自然な感じ。

イメージ 4

河原口。
当初、ここに相模国府があったとの説も。
ここが海老名氏の本貫地と云う。

イメージ 5

住宅地を斜めに横切る直線道路。
神奈川県愛川町半原を水源とする横須賀水道だそうです。
この下を横須賀市まで53kmほぼ直線に水が流れているそうです。

イメージ 6

この道路の脇に海老名氏記念碑が建つ。

イメージ 7

正面から。

イメージ 8

拡大します。

https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/8/f/8f30d45d.jpg

海老名氏館跡はここではなく、少し西へ行った有鹿小学校の南にあったと云う。

イメージ 9

付近の字名は「御屋敷」ということから、この住宅地辺りにあったと考えられているものの、発掘調査では何も遺跡が出てきていないそうです。

イメージ 10

小学校北側に鎮座する有鹿神社。

 

所在地  神奈川県海老名市上郷1-4-41
主祭神  有鹿比古命・有鹿比女命
創建    詳細は不明

 

イメージ 11

 

イメージ 12
【有鹿神社由緒】
相模国の最古の神社であり、しかも、海老名の誕生と発展を物語る総産土神である。
≪最古の神社≫
はるか遠い昔、相模湾の海底の隆起により、有鹿郷を中心とする大地が出現しやがて、そこに人々の農耕生活が始まった。
その豊穣と安全を祈り、水引祭が起こり、有鹿神社はご創建されるに至った。
≪式内社≫
奈良から平安初期まで、海老名耕地という大墾田を背景として、海老名に国府があり、有鹿神社は官社であった。
天智天皇3年(664)はじめて神事を行い、また、平安の延長5年(927)、延喜式の制定により相模国の十三座に列せられた。
美麗な社殿と広大な境内を有し、天平勝宝8年(756)郷司藤原廣政の寄進により、五百町歩の墾田も神領となった。
≪正一位の神階≫
貞観11年(869)、従五位上に昇階し、その後、数次の昇階を経て、鎌倉の永徳元年(1381)正一位の極位に達した。
平安末期、海老名郷の河原口に館を築いた豪族の海老名氏は、有鹿神社を崇敬した。
応永23年(1416)海老名備中守持季(宝樹沙弥)は社殿を修理し、宮鐘を奉献した。
しかし、室町の二度の兵乱を受け、海老名氏が滅亡するに際し、美麗な社殿を始めとごとく灰燼に帰し広大な神領も失った。
江戸期には、海老名郷五ヶ村の総鎮守であり、天正19年(1591)徳川家康より朱印十石の寄進を受けた。
天正6年(1578)神殿の修復がなり、元和8年(1622)海老名郷領主(高木圭水)の内室により、社が再建された。
明治6年(1873)に至り、郷社に列せられ、海老名の総鎮守となった。
明治40年(1907)神饌幤帛料供進社に指定された。
第二次大戦後、宗教法人となり、神社本庁に属する。
現在も、有鹿神社は、海老名市のシンボルとして篤い崇敬を受けている。
社殿は、三棟一字で、本殿、覆殿、弊殿、拝殿からなる。
本殿は春日造、桧板葺の5.6平方米であり、元和8年(1622)を始めとし、数次の修繕を受け、今日に至る。
拝殿の天井には、大きな龍の絵が描かれている。
万延元年(1860)、藤原隆秀(近藤如水)の作といわれている。
本殿と天井絵は、海老名市の重要文化財の指定を受けている。
海老名備中持李の奉献、元禄2年(1689)再鋳の宮鐘は、第二次大戦中に供出を受けたが、昭和53年(1978)年の再鋳がなった。
続いて、手水舎の再建、天神社の遷座、社務所の新築等、神社の整備が進められている。
≪由緒地≫
神社の境内は有鹿の森であり、松なしの森ともいわれる。
境内に隣接して、有鹿姫の悲恋伝説に由来する有鹿姫の霊地がある。
そこは鐘楼跡でもある。
神社の東方約400mの所に有鹿の井戸(化粧井戸)があり、その北方200m進むと、有鹿の池(影向の池)がある。
又、神社の参道を南方約400m進むと、鳥居の跡地の鳥居田がある。
そこから、河原口・中新田を通り、社家門沢橋に至る古道は、明神大縄という参道であった。
社家は、神社の楽人の居住地であった。
相模原市磯部の勝坂には、有鹿谷の聖地がある。
谷の奥には、清水の湧く洞窟(有鹿窟)があり、鳩川に流れ落ちている。
この清水は有鹿谷の霊泉といわれ、古代から、海老名耕地を潤すため、水引祭が続けられている。
この傍らの鳥居の奥に奥宮が祀られている。

 

手水舎。

イメージ 13

鐘楼。

イメージ 14

拝殿。

イメージ 15

中宮が歩いて5分ほどの所に、奥宮が神奈川県相模原市磯部に鎮座しているとのこと。
有鹿神社を題材に散策してもよかった。
有鹿神社の南に位置する高野山総持院。
有鹿神社の神宮寺(神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院)だった。

イメージ 16

総持院の先を左折。

イメージ 17

有鹿幼稚園の先にある細い路地を進む。

イメージ 18

奥に、海老名氏霊堂がある。

イメージ 19

説明板。
海老名氏霊堂の北に菩提寺である宝樹寺があったと云う。
永享の乱の際、関東管領の足利持氏は宝樹寺を本陣とした。

イメージ 20

西隣には宗珪寺があったが、圏央道建設のため移転。
まもなく付近の風景は一変することでしょう。

イメージ 21

海老名市を後にしました。

イメージ 22

結局、海老名氏館は良く解りませんでしたが、故地の風景が見れて良かったです。

 

(おまけ)

 

海老名のゆるキャラ「ViNASEVEN(ビナセブン)」
エビワンからエビセブンまでいるそうです。
これは、エビセブンかな?
まさに、海老七(=えびな)

イメージ 23

最後にお決まりのマンホール。

イメージ 24

相模国分寺七重の塔と、市の木ツゲ、市の花サツキが描かれていました。