登城日 2011年10月26日(水)晴
難易度 ☆
場所 愛知県岩倉市下本町字城址
尾張上四郡守護代「織田伊勢守家」の城です。
【岩倉城跡】
岩倉城は文明11年(1497)頃織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。
敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智多・海東・海西)を支配する清洲城の織田伊勢守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清洲城と並んで、もっとも重要な城であった。
城跡は東西約91m、南北約171m、標高10m台地上にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名が残されている。
岩倉城は弘治3年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌2年3月遂に落城した。
本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政7年(1860)に建てられたものである。
岩倉市教育委員会
最寄駅は名鉄犬山線岩倉駅です。
駅から真っ直ぐ東へ歩いて行くと神明生田神社があります
鳥居。
手水舎。
蕃塀。
神明生田神社は、天文23年(1554)岩倉城に勧請されたもので、岩倉城落城後は真光寺に移され、文化7年(1810)に現在地へ移転された。
社殿の横。
「山内一豊公誕生地」の碑が建っている。
説明板。
山内一豊は、天文14年(1545)岩倉城家老山内但馬守盛豊の二男として、この地で誕生したとの説がある。
大きな「山内一豊公誕生地」の碑。
NHK大河ドラマ「功名が辻」放映記念碑。
神社の境内に連なるお祭り広場。
広場の東側を流れるのは五条川。
「日本さくら名所100選」に選ばれている桜の名所。
春に来れば良かったなぁ。
魚がいっぱい泳いでいました。
五条川の名の由来は、①5本の川の流れが1本になった川だから、②清洲城(御城)へ水を引いた川だから、③川沿いに岩倉城等五つの城があったから、等諸説あるそうです。
五条川は現在よりも曲がりくねって流れていた。
旧流路は岩倉市第三児童館の所から右(西)へ。
旧流路に沿った道。
住宅街の間の細い道を進むと少し広い道と交差。
角に、黒龍社が鎮座。
神明生田神社の摂末社らしい。
神社から五条川旧流路の道(2本の道の左側)を見下ろす。
実は、ここが岩倉城の東北隅だったそうです。
岩倉城下町復元図。
岩倉城復元想像図。
外堀跡を西へ。
南を見る。
二重の堀があったが、現在は埋まっている。
この辺りが岩倉城北西隅。
岩倉街道を南へ。
外堀はこの街道の東側にあったようだ。
下本町下市場の交差点が見えてきた。
角にある「喫茶あすか」は岩倉市古城研究をやっていると書いてありました。
下本町下市場の交差点から振り返る。
コーヒーでも飲めば何か教えてくれたかも知れませんね。
愛知県道25号線。
交差点から東へ60m行った所が本丸跡。
東へ進む。
少し行った所にあった細い水路は内堀の名残かな。
ここから地形が少し盛り上がる。
この辺りに西大手門があった。
県道の北側にある城址休憩所。
この辺りの小字は「城址」。
城址休憩所の北に搦手門があったようだ。
道を進むと東北隅にある黒龍社に突き当る。
搦手門付近から本丸方向を見る。
全く城跡の痕跡が解からなかった。
県道に戻る。
県道の南側が本丸跡。
城跡碑。
奥に「織田伊勢守城址」の碑。
安政7年(1860)に建てられたもの。
伊勢守家は、尾張織田氏の宗家だった。
ここに復元図や想像図があります。
説明板。
城址碑西側の細い路地を進む。
この辺りが本丸。
左側の建物の中にも「織田伊勢守」とか「…城本丸址」と書かれたものが見えました。
岩倉城の研究をしているのかな?
本丸から西側を見る。
この辺りは付近より一段高い。
下本町下市場の交差点へ戻り、岩倉街道を南へ進む。
外堀は東側にあった。
街道の西側にある誓願寺。
境内に岩倉城主織田伊勢守信安夫妻の墓がある。
説明板。
誓願寺前の交差点から東を見る。
先を進むと二の丸の南限。
「神明太一宮二神門舊跡」の碑が建つ。
進んで二の丸を南から見る。
水路は内堀跡か。
右奥の高台が本丸。
この辺りが一番城跡っぽいかな。
さらに東へ行き、杁ノ口墓地がある斜めの区画が虎口の名残。
大手門があった。
南側の畑地は少し高くなっている。
土塁か何かの名残ですかね。
二の丸の南には外堀に囲まれた曲輪があり、中級家臣団の屋敷があった。
今は住宅地になっていて、水路で何となく辿れる感じ。
小字は「丸之内」。
城址碑の建つ本丸跡へ戻る。
東側の交差点は下本町城址。
この辺りに東大手門があった。
南側の畑地は内堀跡っぽい。
西側は本丸で高台になっている。
何となく一周しました。
図説が無ければ全く解らない岩倉城でした。