東条城(三河国) | 三日月の館

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登城日 2011年 1月19日(水)晴
難易度 ☆☆
場所   愛知県西尾市吉良町駮馬字城山

 

東条吉良氏の居城です。

 

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【東条城の歴史】

鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・三河荘地頭となった。
その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。
以後、14代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は300余年、足利・吉良氏も三河・遠江支配の重要拠点であった。
南北朝時代、4代貞家は奥州管領として東国に赴いた。
その後裔が関東吉良氏である。
室町時代、応仁の乱(1467~)では、10代義藤は山名宗全に味方して、細川方の西条(西尾)吉良と骨肉相争う悲劇を味わった。
12代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山の不慮の死を遂げるや、清康の遺児仙千代(家康の父・広忠)の親代りとなり松平一門の危機を救った。
家康は、桶狭間合戦以後、織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄4年(1561)東条城を攻め、14代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。
しかし、天下を掌握した家康は、13代義安の子義定を旗本に取り立て吉良家を再興した。
これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。
落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って東条松平家が成立した。
家忠の伯父松井忠次はこれを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・駿河三枚橋城主となり、松平姓を与え
られ周防守康親と名乗った。
天正9年(1581)家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を後嗣に迎えた。
康親は天正11年に没したが、子孫は多く幕府の要職についた。
忠吉は関ヶ原合戦後、尾張清州城主となるが、慶長12年(1607)に没し、後嗣なく東条松平家は断絶した。
また、ここには高名な文人、武人が多く訪れている。室町時代に歌人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宗長はここで連歌の会を催した。
武人では、信長、家康も鷹狩りにことよせて訪れている。
東条城は、天正18年(1590)に、家康が関東に移った後廃城となった。
それ故、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものである。

 

最寄駅は名鉄西尾線上横須賀駅です。
この駅まで来るのが至難の業です。

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ここでは吉良上野介は英雄のようです。

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町内散策マップ。

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狛鹿のある春日神社脇を通って東へ進む。

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宝泉神社の東側を北へ進むと小牧陣屋跡があります。

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説明板。

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【小牧陣屋の歴史】

永禄4年(1561)秋、家康は自ら出陣して東条城を攻略した。
ここは、その本陣跡である。
東条城落城後この地は本多豊後守広孝の所領となり、砦跡に邸宅をかまえて地頭役人を置いた。
その後、変遷を経て慶長年間には、大河内氏の所領となった。
寺津城主大河内正綱は兄久綱とともに家康に仕え、関ヶ原役以来戦功多く領地の加増も6回に及び、3代の正久は備後守を称し、元禄16年(1703)上総国大多喜城を拝領し、松平姓を賜わった。
大多喜藩は27,500石で、上総で14,000石余、小牧陣屋関係13,000石余で、小牧陣屋は代官役所としては、非常に規模の大きいものであった。
大河内氏は以来百数十年続き、11代正質の時、明治維新を迎え、小牧陣屋も閉鎖されることになった。

付記 この庭は、古図により御殿の前庭の一部を再現したものです。

平成3年秋
吉良町教育委員会

 

再現された前庭の一部。

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実はこんだけ。

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平面図を見ても、掠れてしまっていて良く解らなかった。

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小牧陣屋跡から北へ進むと、東に東条城が見えてきます。

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東条城遠景。

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さらに北へ進むと、藤波畷古戦場があります。

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愛知県道318号線を東へ進む。

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大手橋を渡る。

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橋に描かれた東条城。

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かつての城下町。

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この細い道へ右折。

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右折した所にある「参州東条古城図」
掠れて良く見えないのが残念。

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登城口。

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逆茂木。

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帯曲輪。

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帯曲輪の奥は横矢掛けになっている。

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冠木門からは少し急な坂。

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登りきった所にある三の丸。

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土塁が廻る。

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三の丸からの眺め。

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説明板。
先程通って来た小牧陣屋や藤波畷のことも書かれています。      

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【東条城の落日】
それは永禄4年(1561)9月13日であった。
この日は、この東条城の攻防に戦死した数百の将兵の命日でもある。
三河に着々と勢力を蓄えた松平元康(徳川家康)は永禄4年9月小牧砦に出陣し、自ら指揮して東条城攻略の態勢を固めた。
小牧を本陣に、津平、友国、平原にも砦を築いた。
もはや今川からの援軍も期待できず勢いに乗る松平勢の前に、東条城の命運は絶望的であった。
13日総攻撃は開始された。
戦闘は藤波畷で始まった。
守るは吉良の家老、室城主富永伴五郎忠元が率いる一族郎党、一面の湿田で進撃路は狭く、討ちつ討たれつの激戦となった。
しかし多勢に無勢、伴五郎も討ち死し、一族ここに全滅した。
これを見た吉良方は城に退いて善戦したが、守りきれず、城主吉良義昭は降伏した。
こうして鎌倉以来連綿と続いた名門、東条吉良氏の居城は、松平の手に落ち、元康(家康)の三河平定は完了した。

 

今度は二の丸へ。

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二の丸は三の丸より一段高くなっており、現在は八幡社が鎮座。

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二の丸も土塁が廻っていたらしい。
僅かに残っています。

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三の丸から見た本丸。

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大手門へ向かう。

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復元された大手門。

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脇には復元された櫓が建つ。

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残念ながら、両方とも登ることは出来ません。

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城址碑。

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本丸の様子。

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土塁と搦手口。

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本丸東南隅櫓台。

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本丸から三の丸を見下ろす。

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三の丸とは反対側の眼下に法応寺があったと云う。

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説明板。

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行ってみる。
本丸と二の丸の間を進む。

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本丸下の曲輪。
木が繁っている所が東南隅櫓台。
その直下にも虎口があったようだ。

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現在の登城道は真っ直ぐ進む。

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下りた所付近が法応寺跡。
法応寺は既に廃寺となっていて跡形も無いが、畑地の向こうの山の頂上にも土塁があると云う。

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大手橋を渡り、今度は真っ直ぐ進んで今川城へ向かいました。

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