山名氏豊館(伯耆国) | 三日月の館

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登城日 2012年 8月 9日(木)晴
難易度 ☆
場所   鳥取県倉吉市東町422

 

里見家墓所のある大岳院にあったと云う。

 

【山名氏豊館】

江戸時代に書かれた「伯耆民談記」の大岳院の項には「当寺は天正の頃、山名小三郎氏豊の館地なり」とあり、続いて「境地方四十間、廻りは大藪にして切岸の土居なり、誠に要害堅固にして小城とも謂つべし」と記されている。

戦国時代の天正の頃、現在の大岳院の敷地には南条氏家臣・山名氏豊(伯耆守護山名氏の一族)の館が存在したという。

しかし現在では伯耆民談記に見える土塁の遺構は確認されていない。

倉吉市の発掘調査では、氏豊の時代とずれるものの、室町時代ごろと思われる富裕層の屋敷跡が発見されており、山名氏の守護所跡との指摘もある。

(wikipediaより)

 

打吹城下の本町通り。

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その北側の打吹玉川の白壁土蔵群。

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共に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

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この地区の東隣にあるのが大岳院。

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境内の様子。
ここに山名氏豊館があったと云う。

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略測図。

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山名氏豊とは、

山名氏豊は伯耆国久米郡打吹城主で南条氏家臣、通称・小三郎。

氏豊は伯耆守護であった山名氏の一族で山名豊之、政之の子孫にあたる。

「伯耆民談記」によれば氏豊は各地を転々とした後、芸州で毛利氏に仕えたといい、永禄5年(1562)頃、伯耆へ帰国した。

帰国後、南条氏の下へ入った氏豊は久米郡の倉吉周辺のわずかな村邑を領有したが、先代の頃の勢いを回復するのは、もはや不可能となっていた。

天正8年(1580)8月、南条・毛利間で長和田・長瀬川の戦いが起こると氏豊は旧山名家重臣らと共に出陣、奮戦するも敗北し、敗走を余儀なくされた。

同年8月、鹿野へ逃れる途中の因幡国気多郡内にて落人狩りの一行に遭遇、従者の四宮源蔵と共に討ち取られた。

(wikipediaより)

 

大岳院由緒。

https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/1/a/1af29932.jpg

鐘楼門を入って左側に駒姫八幡宮。
山名氏豊と娘・駒姫を祀る。
その右側に大江磐代の母「お林の方」の墓。
大江磐代は第119代光格天皇の生母であり、その母「お林」は駒姫の娘と云う。
(つまり、光格天皇の高祖父は山名氏豊???)

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鐘楼門の左側には里見家墓所。
何と、あの南総里見八犬伝で有名な安房の里見氏の墓がこんな所に…

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説明板。

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【里見家墓所】

房州(千葉県)館山10代城主里見安房守忠義公は、慶長19年倉吉に転封されて当院門前に居住された。
元和8年29歳にして関金町堀の地において逝去され、近臣8人が殉死を遂げた。
遺言により、当院において葬送し殉死8臣の遺骨を埋め、御位牌とともにお祀りしている。
この時当院で授けた忠義公の法名を「雲晴院殿心叟賢凉大居士」といい、殉死した8人の法名にもすべて「賢」の字を付けたところから、彼らは「八賢士」と呼ばれていた。
のちにこれが、滝沢馬琴作『南総里見八犬伝』のモデルになったのではないかといわれている。
尚、この墓所には忠義公の伯父正木大膳と里見家家老堀江能登守も、ともに埋葬されている。

 

お墓の周りには八匹の犬が見守っています。

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里見忠義については、観光案内所で貰える本が大変参考になります。
国鉄倉吉線の廃線探訪で関金町へ行くことがあったら、関連史跡を見て廻ろうと思います。

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その隣に羽衣の井戸。
天女が水浴びをしたという伝説に纏わる羽衣池はこの辺りにあったのかな。

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その他境内を見渡しても城館の遺構らしきものは全く見つけることが出来ませんでした。
なお、天正8年8月の長和田・長瀬川の戦いで毛利氏の敗れた山名氏豊が、鹿野に向けて落ち延びる途中に討ち取られた場所である鳥取市青谷町鳴滝に、山名氏豊と従者四宮源蔵を祀る山名神社(青谷町鳴滝358)があるそうです。

 

(おまけ)

 

大岳院付近にあった武家屋敷跡。

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今も子孫の方が居住されているとか。

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暑かったのでご当地ソフト「梨ソフト」をいただく。
おいしかったです。

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最後に、お決まりのマンホール。

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市の花であるツバキがデザインされています。