場所 兵庫県たつの市西町佐江
赤松広英 蟄居の地か |
諸説ある内の一つです。
元亀元年(1570)11月12日、龍野城主赤松政秀死去。嫡子広貞が後を継ぐ。
その後、広貞が夭逝したため次男赤松広英(のちの広秀、広通)が家督を継承。
天正3年(1575)10月、赤松則房に従い御着城主小寺政職、三木城主別所長治、元備前天神山城主浦上宗景らと共に上洛し、織田信長に謁見。
天正5年(1577)12月、織田信長の軍勢が龍野に入ると城を明け渡して、家老平井貞利の領地である揖西郡才村(佐江村)に退去し、この時名をを斎村政広に改めたと云う。
赤松広英が鶏籠山城を明け渡して退去したという才村(又は佐江村)は諸説あるらしいが、小柳清水の西南、西垣内川を渡った所にある『佐江』という名の集落へ行ってみました。
佐江集落の地図。

佐江集落まではコミュニティバスが走っていますが、本数は少ないです。

西には泥山。

集落の北に佐江弘法大師堂。

三鈷の松。

井戸と手水舎。

西隣に照円寺。

浄土真宗本願寺派の寺院。

なので、鐘楼が立派。

お城の櫓みたい。

集落の北には龍石神社が鎮座。

北を見る。
字小神の山には家老平井貞利の居城であった平位城があったとか。
そして、その麓に景雲寺があり、蟄居時にその僧であった藤原惺窩と親交を持ったと云う。

高く聳える的場山の西に赤松広英の居城であった鶏籠山城があった。

赤松広英に関して何も手掛りを得られぬまま、佐江集落を後にする。
でも、位置関係から何となくココっぽく感じました。

写真を撮った場所の背後に養久山が聳えており、日本城郭大系には、そこにあった乙城が赤松広英蟄居時の居城だったと書いてありました。
撮りもらしました
斎村政広は、秀吉配下の蜂須賀正勝に従い小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、天正13年(1585)但馬竹田城2万2,000石を与えられた。