登城日 1回目 1990年頃 晴
2回目 2012年 1月 9日(月)晴
難易度 ☆☆
場所 兵庫県たつの市御津町室津
赤松義村最期の地 |
八朔のひな祭りの悲話が残る浦上氏の城です。
【室山城】
室津は西播磨の重要な港町で、その入江はいつも室の中のように穏やかなためにその名があり、『賀茂注進雑記』によれば、平安時代末期に室御厨・塩屋御厨の名がみえて、賀茂別雷社領42か所の1つで、御厨管理のために港を抱く小さな半島に末社が営まれていた。
この室御厨管理の任務を持つ賀茂神社が、鎌倉時代には荘政所(政庁)であると共に、いざという場合には城塞になったであろうが、その賀茂神社の山続きの丘陵に室山城が築かれたのは、おそらく鎌倉時代末期であろう。
播磨国佐用荘から台頭した赤松則村(円心)は、千種川流域を押さえると、外港を求めて室津をその支配下に収めたと考えられる。
建武2年(1335)に鎌倉で挙兵した足利尊氏が、翌年正月に京都の戦いに敗れて九州へ敗走する途中、西下して来る新田義貞の追討軍を阻止する戦略を円心らと協議し、山陽道諸国や四国の大将を定めたのは、この室津であった。
円心は白旗城を固く守り、新田義貞が攻めあぐねているうちに、九州でたちまち勢力を回復した尊氏は、海陸両道から大軍を率いて東上し、義貞は白旗城の囲みを解いて兵庫へ退いた。
円心は室津で尊氏に再会し、軍を合流して湊川の合戦に臨んだのである。
室町幕府のもとで播磨守護となった円心は、孫の本郷直頼(範資の子)に、続いて赤松頼則(貞範の子?)にこの城を守らせたという。
嘉吉の乱では、一族の赤松満政が室津に上陸して城山城の満祐を攻め、落城後満祐の弟義雅の幼児千代丸(のちの時勝、赤松政則の父)は満政の手で室津にかくまわれ、さらに天隠龍沢に迎えられて、義雅夫人の実家三条家で養育された。
嘉吉の乱の恩賞として播磨守護職を得た山名持豊(宗全)は、子の政豊に室山城を守らせたという。
応仁の乱の時旧領3か国(播磨・備前・美作)を回復した赤松政則は、備前三石城の老臣浦上則宗に室山城を補修させてこれを守らせた。
室津を支配するようになった則宗は、ここに関所を新設して海陸の物資に関税を課し、浦上氏の財源とした。
則宗は、この財源と武略によって強大となり、主君政則との一時対立して追放するほどになった。
その後室山城は、永禄9年(1566)正月に龍野の赤松政秀の急襲に遭い、城主浦上政宗が討死し廃城となった。
(日本城郭大系より抜粋)
最寄駅は山電網干駅。

駅前から神姫バス大浦行きに乗り室津バス停下車。

バス停前に「セイバン」。
ランドセル「天使のはね」のCMで知られる。
ここが本社とは。
(社名の「セイバン」は製鞄と西播をかけているらしい。)

バス停の南に室山城はあった。
国道250号線付近は堀切だったかも。

調査図。

南へ少し登り始めると、数段の平坦地があった。
往時の曲輪跡かは不明。

この石垣は往時のものではないが、城跡を彷彿させる。

道路を挟んで反対側(海側)は字「城ノ越」。
腰曲輪かな。

バス停から5分もかからずに室津二ノ丸公園到着。

二ノ丸公園へ行ってみる。

二ノ丸公園から登って来た方を見下ろす。

字「城ノ越」を見下ろす。

二ノ丸公園。
この辺りは字「二ノ丸」。

二ノ丸は数段に分かれる。
上段の曲輪。

石列?

下段を見下ろす。
縄張が三石城と似ているとか。
ここは三の丸だったのかも。

西側にも小さな曲輪があった。

二ノ丸公園から嫦峨山を見る。

二ノ丸を後にして、

先へ進む。

この辺りはまだ二ノ丸。

この先が本丸。

本丸の西側を進む。
この付近は字「城山」。

登って行くと城跡碑がある。

城跡碑。
遠見番所は、商船の通行を見張るため江戸時代に造られたもの。

さらに登る。

登った所が本丸跡。
草茫々で特に何も無し。

一段下の平坦地もありました。
室津は大変栄えた時期があり、人家が建ち並んだことで地形がかなり改変されているそうです。

本丸を下りる。

二ノ丸へ戻って、本丸東側へ。

本丸東側も海が迫っている。

本丸東側。

石垣?

本丸付近から見えた賀茂神社。
室山城と密接な関係があるという。

最後に室津の港と室山城。

室山城には悲話が残る。
永禄7年(1567)(一説には永禄9年(1566)とも)正月、城主浦上政宗は勢力拡大を図るべく、姫路城主黒田職隆(黒田官兵衛の父)の娘を子清宗の妻に迎える。
西播磨における浦上氏の力を削ごうと窺っていた龍野の赤松政秀(但馬竹田城主赤松広秀の父)は、婚礼の夜に急襲し政宗父子を討ち取った。
同時に非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために、以後室津では3月ではなく八朔(旧暦8月1日)にひな祭り
を行うようになった。
(おまけ)
先へ進むと江戸時代の史跡である燈籠堂跡。
現代でいう灯台みたいなものらしい。

藻振観音堂跡。

玉藻刈る 唐荷の島に 島廻する 鵜にしもあれや 家思はざらむ
山部赤人

室山城さようなら。
室津の港町へ向かいます。

案内図。
![]() |
法然上人貝堀の井戸。

法然上人が貝で掘ったと云う井戸を覗いてみる。

法然上人の高弟信寂上人が教化の道すがら土地の長者の帰依をうけ建立した浄運寺。

遊女友君の塚。
法然上人は讃岐に流刑の途中、風待ちのため寄港した室津で遊女友君に逢う。
上人の説法で友君は後年尼となるが、許されて京に戻る上人が再び立ち寄った時、友君はもう亡き人であったと云う。
友君は木曾義仲の愛妾で、流れついた室津で舞いを見せ、遊女の始まりとも言われているとか。

西鶴作で有名な『お夏清十郎』の清十郎の生家。

赤松氏も登場する谷崎潤一郎作『乱菊物語』の舞台でもあります。

江戸時代は参勤交代の大名の本陣が建ち並んでいた。
本陣跡の碑があちこちに建っています。

牡蛎の試食も出来ます。

最後に見性寺。
足利尊氏と赤松円心が軍議をした地は赤松義村最期の地(又は実佐寺)とも。

三石城の攻略に失敗し逆に浦上村宗に捕らえられた赤松義村は、嫡子道祖松丸(後の赤松晴政)を浦上方へ引き渡した上隠居。
その後、勢力挽回に務めるものの最後には室山城に幽閉され、大永元年(1521)9月17日浦上村宗が放った刺客に襲われ、壮絶な最期を遂げた。