場所 京都市中京区柊町583-2
足利尊氏の屋敷があった所です。
御池通(三条坊門小路)から高倉通を北へ上る。
この付近に室町幕府を開いた足利尊氏の邸宅があったと云う。

保事協会館の前に碑と説明板が平成7年に建てられた。

碑を拡大。

説明板。

―足利尊氏邸・等持寺跡-
京都府保健事業共同組合・保事協会館のあるこの付近は、室町幕府初代将軍足利尊氏(1305~1358)の「三条坊門第」(「二条万里小路第」)のあったところである。
尊氏邸の範囲については諸説あるが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えるのが最も合理的であろう。
尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358)にはここで薨じた。
この地は、後に「室町幕府」と呼ばれた政権の発祥地であったわけである。
後にこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められた。
尊氏は3つの寺院を建てることを願ったが果たせず、そのため「等持寺」という文字の中には3つの寺が含まれることになったと伝えられている。
等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たした。
しかし、応仁・文明の大乱(1467~77)以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院(北区)に合併されてしまった。
近代に残る「御所八幡宮」は、尊氏邸・等持寺の鎮守社であったという。
なおこの地は平安京の条坊表示では左京三条四坊七町にあたり、歌人として著名な右大臣藤原定方(873~932)の邸宅「大西殿」があったことでも知られている。
後にこの邸宅は冷泉天皇皇后昌子内親王(950~999)の御所となった。
紫式部が『源氏物語』で描く藤壺中宮とその御所三条宮は、昌子内親王と大西殿をモデルにした可能性が高い。
京都府保健事業協同組合は、こうした由緒ある史跡の一角に活動の本拠を置くことを悦び、組合創立45周年を記念してここに顕彰碑および解説板を建立する。
1995年10月16日
京都府保健事業協同組合
解説 京都文化博物館
図を拡大。
足利尊氏の頃、将軍の公邸は室町通に面していなかった。
室町幕府の名は、現上京区にあった花の御所が室町通に面していたことに由来。
花の御所は三代将軍足利義満になってからである。

足利義満以降、三条坊門第は徐々に使われなくなり荒廃していった。
洛中洛外図には、残った等持寺と三条坊門第の鎮守社だった御所八幡宮が描かれている。

その後、等持寺は応仁の乱で焼失し、北区にある等寺院(北等持寺)に統合。
御所八幡宮だけが残った。
御池通の南にある御所八幡宮。

御池通に面した境内入り口。

説明板。

応神天皇。神功皇后、比売神の三神を祭神とする。
もと御池堺町西南角の御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通の強制疎開によってこの地に移された。
この八幡社が「御所」八幡宮と呼ばれるのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏が自らの邸宅内の守護神として勧請したことに由来するという。
尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また現在の地名から高倉八幡とも呼ばれ、親しまれてきた。
特に安産と幼児の守り神として有名で、左京区上高野の三宅八幡と並んで「虫八幡」と呼ばれ、世間の信仰を集めている。
京都市
手水舎。

手水舎にあった略誌。
![]() |
向かいの境内社、三社、初音稲荷社。

拝殿。

最後にもう一度、旧境内地付近から見る。

室町幕府滅亡後衰微し往時を偲ぶべくもないが、御池通拡幅の為狭い現境内へ移転させられたものの概ね旧地付近に何とか残った。
他、足利尊氏の三条坊門第の痕跡を示すものとして、付近の地名に「御所八幡町」「東八幡町」「等持寺町」などが残っている。
(おまけ)
付近に咲く御池桜。
「不断桜」という種類の桜で、一年で最も寒い時期(写真は1月)に咲くけなげな桜。

付近の粋人が命名。
「御所八幡桜」の方が良かったなぁ。
京の名所旧跡(目次)へ戻る