坂本龍馬 お龍 「結婚式場」跡(京都市東山区) | 三日月の館

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場所 京都市東山区三条通白川橋五軒町112

 

こんなところも史跡になるの?

 

坂本龍馬と妻お龍とが結婚式を挙げていたとか。

 

結婚式場だった金蔵院跡地には、東山ユースホステルが建っています。
一度泊まりましたが、海外で泊まるユースホステルみたいに外人と友達になれなかった。

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玄関前に石碑が建っています。
写真まで飾ってあります。
宿泊者倍増?

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青蓮院塔頭金蔵寺跡であることは間違いないようです。
結婚式をここで挙げたことは、お龍本人が語ったらしい。

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これも最近建てられたようです。

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現地解説板です。

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【解説板の内容】
当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、明治32年(1899)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。
お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。
が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。
この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。
その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。
しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。
龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。
二人はながく別居夫婦だったのです。
当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。

石碑が建っているので、訊ねないわけにはいけません。
しかし、ここまで史跡にする必要があったのだろうか?

 

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