登城日 2009年10月12日(月)晴
難易度 ☆
場所 京都府京都市伏見区納所北城堀
淀殿の名前の由来となった中世淀城は、現在の淀城より北側にありました。
【淀古城の概要】
淀古城は、水陸交通の要街として槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍事拠点の一つであった。
また、西国方面の海産物の集荷市場、魚市場があり、対岸の山崎と並んで京都の要害で、淀古城の東側には現在は存在していない巨椋池が広がっていたと思われている。
この城の文献上初見は、『東院年中行事』の文明10年(1478年)8月1日に 〝山城守護代遊佐弾正の代(中略)神保与三佐衛門淀へ入部す〟 とあり山城国の守護所として記されている。
畠山政長守護が応仁の乱に西軍の畠山義就に備えるため、守護所を勝竜寺から当城に移したのではないかと思われている。
その後1493年(明応2年)以降に細川氏が山城国を掌握すると守護代級の被官によって守衛され、摂津国、河内国の抑えの城として使用されてきた。
その後、豊臣秀吉の天下となってからは、天正17年(1589)3月羽柴秀長が淀古城が改修し、産所とする為側室茶々に与えた。
これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。 この城で鶴丸が産まれるが、天正19年(1591)に死去してしまった。
鶴丸が死亡し羽柴秀次が養子となるが、豊臣秀頼が産まれると羽柴秀次と軋轢が生じ、この城の最後の城主であった木村常陸介も連座、城も廃城となる。
文禄4年(1595)の事であった。
明治23年(1890)の『測量の仮製図』によると、堀跡と納所集落の東側に土塁が記載されていたが、現在跡地には、宅地化、耕作地、納所小学校が建っており、唯一妙教寺に石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名が僅かにその面影を留めている。
淀古城については数多い歴史があるが、近隣の淀城と違って城郭は不明な点が多い。
天守に関しても詳細は不明であるが、『駒井日記』には淀古城の天守が存在していた事が記載されている。
淀古城が廃城の後、多くの資材は伏見城建築に使用されたようである。
またその後淀城築城の際にはその伏見城から資材が流用された。
(wikipediaより抜粋)
淀駅北側の納所の交差点。
ここから千本通りを進む。
(この道を斜めに入って行くと京都の中心まで行けるんだなぁ~)

唐人雁木旧跡。
「雁木」とは船着場の桟橋に作られた階段のことで,淀川をさかのぼってきた朝鮮通信使は,この地点より上陸し,陸路で京都へと向かった。

五番橋を渡る。
このあたりが淀古城跡と言われている。
現在は城跡を示す痕跡はなく、地名に「北城堀」・「南城堀」の名残がある。

橋の下を流れる納所川は堀跡と言われている。

川の北側にある妙教寺が城の中心地という。

境内には淀古城を示す碑が建っている。

余談ですが、本堂には戊辰戦争当時の弾痕が残っているという。

その他遺構は見られませんでした。
どんな城だったのでしょうか?
何故、近くに淀城を新造したのでしょうか?
いつか解明されるといいです。