133 鮫ヶ尾城(越後国) | 三日月の館

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登城日 2019年 4月13日(土)晴

難易度 ☆
場所   新潟県妙高市大字宮内・籠町・雪森

 

御館の乱の終焉の地です。

 

高田城から延々と電動自転車を漕いで向かいました。

斐太歴史の里案内図。

妙に青い屋根の勝福寺の所が立ノ内館跡だと気が付いたのは帰宅後だった…汗

登城口に鎮座する斐太神社。

境内。

由緒書。

神社を抜けると斐太遺跡。

説明板。

竪穴式住居があったと云う。

歩きにくいカタクリ。

少し時期をずらすとササユリが咲き誇るという。

鴨城を思い出した。

斐太歴史の里総合案内所へ。

ここで続日本100名城スタンプ46城目をGet!

説明板。

【国指定史跡 鮫ヶ尾城跡】

 

『上杉景虎と御館の乱』

 

<上杉謙信と上杉景虎>

上杉景虎は相模の戦国大名北条氏康の実子として生まれ、永禄12年(1569)の北条氏と上杉氏の同盟成立を受けて越後に入り、謙信の養子となりました。

この同盟は翌年に解消されましたが、景虎は相模に送り返されることもなく、その後も謙信の姪(上杉景勝の姉または妹)を妻として迎え厚遇され続けました。

<御館の乱決戦の地 鮫ヶ尾城>

天正6年(1578)3月、春日山城内で上杉謙信が後継者を明確にしないまま急逝したため、二人の養子の「景虎」と「景勝」が家督をめぐって越後の勢力を二分して争いました。

この争いを景虎方が拠点とした「御館」(現在の直江津)にちなんで「御館の乱」と呼びます。

劣勢となった景虎はわずかな手勢で鮫ヶ尾城に立て籠もりましたが、勢いにのる景勝方の総攻撃に耐えることができず、天正7年(1579)3月24日に鮫ヶ尾城にて自害しました。

鮫ヶ尾城はこのときの戦火で落城したと伝えられ、現在もそのときの姿を忠実に留めています。

鮫ヶ尾城将「堀江宗親」の居館跡とされる「立ノ内館跡」の一角に所在する勝福寺では、当地で非業の最期を遂げた景虎の命日を新暦の4月29日と定め、毎年法要が営まれています。

 

絵図を拡大。

縄張図。

いざ、鮫ヶ尾城へ!

登城口。

上信越自動車道を潜る。

カタクリを踏まないように登って行く。

景虎清水へ寄り道。

景虎清水。

戻って登って行く。

この辺りにも居館があったのか、段々になっている。

もう見えてきた。

さらに登って行く。

大堀切1に到着。

右、本丸。

真っ直ぐ、三ノ丸。

左、東一ノ丸。

本丸へ。

本丸の東端。

本丸。

N185曲輪。

説明板。

東屋。

城下を見下ろす。

城址碑。

本丸の北側は米倉跡。

本丸を振り返る。

米倉へ下りて行く。

大堀切2。

反対側。

米倉跡。

米倉跡から本丸を見る。

さらに進む。

米倉跡の北側の堀切は草茫々。

N177曲輪へは行けなかった。

残雪。

戻って本丸下を進む。

本丸東端から振り返る。

今度は二ノ丸へ。

説明板。

本丸を見上げる。

二ノ丸南側の三ノ丸を見下ろす。

大堀切1へ戻る大堀切1の南側。

三ノ丸へ。

井戸跡。

堀切があって三ノ丸。

三ノ丸。

この井戸の近くで上杉景虎が亡くなったと云う。

南登城道。

虎口。

南登城道は続く。

大堀切1へ戻る。

今度は東一ノ丸へ。

本丸を振り返る。

堀切6。

少し進んで振り返る。

緩やかに登って行く。

東一ノ丸。

東側の堀切。

東一ノ丸を振り返る。

緩やかに下りて行く。

堀切8。

堀切8を見る。

進んで振り返る。

ここから先は草茫々。

よって、曲輪の脇を進む。

大堀切5。

また曲輪を迂回。

いよいよラスト。

大堀切6。

振り返る。

ここからなだらかな斜面。

斐太遺跡。

説明板を拡大。

淡水魚の池。

一周しました。

最後にスタンプ。

歴史の大舞台ではあるが、続日本100名城かな?