登城日 1回目 1993年秋
2回目 2015年 2月11日(水)晴
難易度 ☆
場所 埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山
関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された城です。
最寄駅は東武東上線東松山駅。
駅から東へ進む、東松山市ウォーキングセンターで情報収集。
復元絵図。

国道407号線の陸橋から見えた松山城。
市野川対岸から見た松山城。
市野川は天然の堀の役割をしていた。
寛永6年(1629)伊奈忠次の荒川の瀬替え後は度重なる氾濫で悩まされた。
今も河岸改修が行われている。
市野川を渡ると吉見町。
當選寺の先に登城口。
説明板。
【史跡 松山城跡】
この城跡は、市野川が形成した広大な低地に突き出した丘陵の東端に築かれており、戦国期に幾度もの攻防戦が行われた北武蔵地方屈指の平山城である。
現存する城跡は当時の姿を良好にとどめており貴重な文化財である。
市野川に突き出た部分から本丸、二の丸、春日丸、三の丸が南西から北東に向って一直線に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。
また、兵糧倉跡や物見櫓跡なども残されている。
城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえ言われるが、一般的には鎌倉時代(末)期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永23年(1416)ごろの上田上野介築城説などがある。
しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、15世紀半ば太田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
この城が天下に知られたのは、今から約450年前の天文年間から永禄年間のことであり、城をめぐる上杉氏、武田氏、北条氏の争奪戦は有名である。
のちに豊臣勢に攻められて、天正18年(1590)に落城した。
歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広の居城となったが、後を継いだ弟忠頼が慶長6年(1601)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。
(平成20)年に(国)指定史跡となっている。
絵図を拡大。
登って行く。
竪堀のような道を登って行く。
平場。
笹曲輪。
笹曲輪から本曲輪を見る。
本曲輪へ。
本曲輪。
本曲輪から笹曲輪の方を見る。
本曲輪に神社の基礎跡。
説明板。
航空写真を拡大。
縄張図を拡大。
比企4城跡の位置図を拡大。
立地図を拡大。
神社の基礎跡から本曲輪を見る。
本曲輪から東松山市街を見る。
本曲輪の東の櫓台跡に城址碑。
北側の虎口から出る。
土橋を進む。
兵糧倉跡。
今ここ。
さらに下りて行く。
下にも曲輪。
東へ進む。
岩室観音堂への搦手道。
岩室観音堂。
説明板。
石仏。
観音堂。
戻る。
惣曲輪に出た。
現在は畑地となっている。
惣曲輪から本曲輪の方を見る。
虎口。
虎口の先の曲輪。
先へ進む。
惣曲輪の登城口。
今ここ。
三ノ曲輪へ向かって空堀があるのですが、写真だと草茫々で解らない。
再び虎口から惣曲輪を進む。
惣曲輪。
本曲輪の方へ。
兵糧倉跡の下の曲輪から見上げる。
土橋を進む。
再び本曲輪。
本曲輪から二ノ曲輪を見る。
空堀。
二ノ曲輪が突き出ている所。
櫓台かな?
本曲輪を振り返る。
二ノ曲輪。
二ノ曲輪は本曲輪より1m低く築かれている。
本曲輪の櫓台をコの字形で囲んでいる。
本曲輪櫓台を見る。
戻る。
本曲輪との間の空堀を見る。
南側から下りてみる。
空堀。
二ノ丸の下には外郭があったが、昭和45年(1970)に東北自動車道造成のため土取りが行われて消滅![]()
現在は武蔵丘短期大学の敷地となっている。
二ノ丸へ戻らずに、
馬出へ。
馬出。
二ノ丸を見る。
馬出の東へ。
馬出から続く曲輪。
空堀の向こうに曲輪4が見える。
南側の土塁との間の空堀。
土塁から外郭の方を見る。
馬出から三ノ曲輪へ。
馬出の方を見る。
二ノ丸の方を見る。
三ノ曲輪を進む。
馬出との間の空堀。
三ノ曲輪。
二ノ丸東側の南北に細い曲輪。
二ノ丸との間の空堀。
三ノ丸の北端。
惣曲輪東の曲輪を見下ろす。
曲輪4を見る。
戻る。
曲輪4との間の空堀。
北を見る。
南を見る。
空堀を進む。
三ノ丸と馬出の間の空堀。
曲輪4の方を見る。
高低差がいいですね。
もう一度三ノ曲輪と曲輪4との間の空堀を見る。
曲輪4。
三ノ曲輪を振り返る。
西側に土塁が残る。
南端。
馬出南側へ土塁が伸びている。
三ノ曲輪より広い方形の曲輪。
三ノ曲輪との間の空堀を見下ろす。
今ここ。
曲輪4の東側へ下りて行く。
空堀。
また曲輪。
北端に櫓台のような高まりがある。
この先にも曲輪があったのかも知れないが、宅地化等で消滅。
今ここ。
松山城を後にする。
戦史からすると日本100名城に匹敵する松山城でした。













































































































