下鴨神社から市営バスに乗り上賀茂神社へ。上賀茂神社前バス停で降りればすぐ目の前です。
<上賀茂神社>
山城国一宮である上賀茂神社、正式には賀茂別雷神社といいます。
お祀りするのは下鴨神社の御祭神・玉依媛命の御子神であらせられる賀茂別雷神。古より京都の守護神として皇族はもとより、貴族、武家の崇敬が篤く、現在も厄除、必勝、電機産業の守り神として多くの人々から信仰を集めています。
<一の鳥居>
一の鳥居から伸びる表参道。その周りは広々とした芝生。
<上賀茂神社表参道>
下鴨神社の森とは対照的ですが、こちらも気持ち良いですね。
<そんなに雪が降ったのか・・・>
<広い芝生で一際目を引く外幣殿(御所屋)>
行幸の際の天皇の到着殿。競馬会神事、葵祭に使用される。
入母屋造、檜皮葺、桁行五間、梁間三間
葵祭の際はこの芝生で賀茂競馬(くらべうま)が行われ、これが我が国の競馬発祥といわれているとか。
<参道脇にある神馬舎>
<神馬・神山号>
現在の神山号は7代目。かつてJRAで2勝を挙げたマンインザムーン。母は桜花賞馬・ダンスインザムードという良血馬。日曜、祝日、祭典日に会えるらしい。
二の鳥居をくぐると
<二の鳥居>
こちらも平安時代さながらの光景が広がります。
<楽屋(がくのや)>
神仏習合時代供僧方が用いたもの。一切経楽屋とも。
<左:舞殿(橋殿)、右:土屋(つちのや)
舞殿:往古より勅使御拝の殿舎。
土屋:神主以下社司の著到殿(ちゃくとうでん)として使われていた。現在は祓所として用いられ、葵祭では斎王代がその前を流れる「ならの小川」で御禊の儀を行う。
式年遷宮により今に引き継がれる社殿群。御殿は概ね寛永5年(1628年)の造替で、そのほとんどが重要文化財に指定されるとのこと。
二の鳥居の正面に佇む細殿(ほそどの)は、天皇や上皇など貴人が本殿参拝前のひとときを過ごした特別な建物ですが、
<細殿>
御殿の前にはきれいに盛られた砂の山が。
<立砂>
立砂といって、御祭神・賀茂別雷神が降臨された神山(こうやま:本殿から約2Km、北北西に位置する円錐形の山)を象ったもので一種の神籬。画像では確認できませんが、頂には3本と2本の松の葉が立てられ陰陽を表しています。
<細殿と立砂>
形からして盛塩の起源かと思ったら(←安易)、清め砂の始まりだと。
手水舎に流れる神山のくぐり水(神山湧水)で身を清め(なんという贅沢!)、
<手水舎>
<手水鉢いっぱいの橘>
<八咫烏さんもいっぱい(お正月仕様?)>
さらに参道を進むと2つの川が合流するポイントが。
<御手洗川、御物忌川の合流点>
ここは「川合(かわあい)」といい、気が集中する場所とされ、御本殿はこの三角形の斜面地に神山を遥拝する形で建てられています。
右は山から流れる御物忌川(おものいがわ)、左は鴨川から引かれた御手洗川。いずれも禊に使われる大切な川ですが、合流して「ならの小川」となったその水はかつての社家町を流れ、やがて京の田畑を潤すという。(←ブラタモリ情報)
<橋殿を流れる「ならの小川」>
楼門の前に架かる玉橋を左に、そのまま片岡橋へ進もうとしたところ、
<楼門前に架かる玉橋>
<玉橋に逆さまに吊るされた榊(※)>
※逆さの榊は葉が落ちないことから生命力があり縁起が良いとされる。鳥居にも見られる。
右手にただならぬ雰囲気をまとった磐を見つけ釘付けに。
<岩上(がんじょう)>
案内板によると、葵祭のとき宮司が勅使と対面し御祭文に対して神の意志を伝える「返祝詞(かえしのりと)」を奏上する場所だそうで、神山と共に賀茂信仰の原点であり、古代祭祀の形を今に伝える場所だとか。
「もしかして神社内最強のスポットなのでは・・・」後方にお社があり、惹かれるように登ってみると―
<須波神社>
御祭神は阿須波神、波比祇神、生井神、福井神、綱長井神。心を静める癒しの神さま。
きれい・・・(←語彙)
<須波神社から振り返る>
岩上を見下ろす位置にあると思うせいか、まるで神さまのお庭のように思えました。
片岡橋のたもとには、第一摂社・片山御子神社(片岡社)が鎮座しています。
<片山御子神社(片岡社)>
お祀りするのは御祭神の母神であられる賀茂玉依姫命。平安の昔より縁結びの神さまとして信仰が厚く、源氏物語の作者・紫式部も度々参拝していたとのこと。「新古今和歌集」に収録される「ほととぎす 声まつほどは片岡の もりのしずくに たちやぬれまし」は、そのときに詠んだ恋の歌と伝えられています。
今も昔も恋する乙女の気持ちは変わらないよね。 キュン(あ、だから石投げないで
)
<縁結び絵馬>
唐破風造の美しい木造廊橋を渡り楼門の前へ。
<片岡橋(渡ったところ)>
御物忌川の清らかな流れに心も洗われたところで、いよいよ御本社にお参りします。
<楼門>
―後編に続く
・上賀茂神社(賀茂別雷神社):京都府京都市北区上賀茂本山339 HP