まずは手水舎で身を清めます。

 

<手水舎(御手洗直澄(みたらしただす))>

 

御手洗は御祭神の神話伝承(※)にちなむ舟形磐座石、御神水を注ぐ樋は糺の森のヌシと呼ばれていた樹齢600年のケヤキでできているそうです。

 

※御手洗池からの湧水と泉川の支流が合流する場所に船島と呼ばれる小島があり(奈良殿神地、下鴨神社に残る古代祭祀遺跡のひとつ)、御祭神・賀茂建角身命が天鳥船に乗り降臨された場所と伝えられている。

手水舎のそばには奈良の小川が。

 

<奈良の小川>

 

石段があるあたり、昔はこちらで禊をしていたのかな? ちょっと伊勢神宮の五十鈴川を思い出しました。

 

南口鳥居から入ってすぐ左手には

 

<下鴨神社南口鳥居>

 

相生社(あいおいのやしろ)があります。

 

<相生社>

 

御祭神は造化三神の一柱・産霊神(むすひのかみ)。縁結びの霊験あらたかな社として古来より格別の信仰を集めているそうです。

隣に祀られる「連理の賢木」は、2本の木が途中から1本に結ばれている不思議な木。

 

<縁結びの象徴とされる連理の賢木>

 

古くから京の七不思議として知られるそう。この御神木は4代目とのことですが、代を継いで糺の森の神域に生まれるとは、ご神威の顕れでしょうか。

 

丹塗りの美しい楼門をくぐると

 

<楼門>

 

目の前に平安絵巻を見るかのような美しい佇まいが。

 

<舞殿>

 

葵祭のとき勅使が御祭文を奏上され、東遊(あずまあそび)が奉納される。

入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間。

<橋殿>

 

御陰祭のとき御神宝を奉安する御殿。古くは御戸代会(みとしろえ)神事、奏楽、里神楽、倭舞が行われていた。また行幸、御幸の際、公卿、殿上人の控え所と定められていた。

現在は名月管絃祭、正月神事等年中祭事のときに神事芸能が奉納される。

入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間。

<細殿御所>

 

歴代天皇の行幸、法皇、上皇、院の御幸の行在所。また関白賀茂詣のおり拝所とされたほか、有名な「鴨社歌会」などが度々行われた御所。文久3年(1863年)孝明天皇鴨社攘夷御祈願行幸の時は第14代将軍徳川家茂の侍所となった。

内部は折上げ二重の天井、外部は向拝の付いた流れ造り。

<神服殿(しんぷくでん)>

 

夏、冬の御神服を奉製する御殿であったためその名がある。古代祭祀の寝殿様式を伝える貴重な社殿。近代は勅使殿、または着到殿となり、古来殿内の一室が行幸の際は玉座に。「開けずの間」と呼ばれ平常の使用が禁止されてきた。

古くから御所が災害にあわれたとき、臨時の御座所と定められている。

入母屋造、檜皮葺、桁行五間、梁間四間。

厳かながら雅な平安の頃を思わせる美しい社殿群。下鴨神社の社殿はたびたび造り替えられており、長元9年(1036年)からは21年ごとに社殿を造替する式年遷宮が行われ(鳥居のそばに第35回式年遷宮(令和18年)の案内が出てましたね)、それにより当時の技術が伝承され、今でも平安時代さながらの美しい建築様式を見ることができるのだとか。

下鴨神社がいかに皇室や朝廷から篤い崇敬を受けてきたかが伺えますね。にっこり

 

<解除所>

 

行幸、御幸、官祭に際してお祓いをされるところ。常設の解除所は珍しいらしい。

中門をくぐり、いよいよ御本社にお参りとなりますが、

 

<中門>

 

御本殿前に7つの小さなお社が。

 

<言社(神社様HPよりお借りしました)>

 

言社(ことしゃ)といって十二支を守る神さまがそれぞれ祀られており、自分の生まれ年のお社にお参りしてから御本社にお参りするとのこと。御祭神は子:大国主神、丑と亥:大物主神、寅と戌:大己貴神、卯と酉:志固男神、辰と申:八千矛神、巳と未:大国魂神、午:顕国魂神。いずれも大国主神の別名です。

 

今年は辰年なので自分の干支と合わせてお参りし御本社へ。画像はありませんが御本殿が2つ並んでいて(国宝だが瑞垣に囲まれ見ることは叶わない)、向かって左が賀茂健角身命を祀る西本殿、右が玉依媛命を祀る東本殿です。

神武天皇をお助けした神さまである賀茂健角身命は厄除け、開運に、玉依媛命は上賀茂神社の神さまをお産みになられた母神さまであることから安産、子育てに御神徳があられるとのこと。二拝二拍手一拝。年のはじめということもあり、真摯にお参りさせていただきました。

 

御本社から朱塗りの美しい太鼓橋・輪橋(そりはし)を見て

 

<輪橋(神橋)>

 

<輪橋に掲げられた龍の絵>

 

<輪橋の近くに咲く「光琳の梅」>

 

江戸時代の画家・尾形光琳がこの辺りを描いたのが「紅白梅図屏風(国宝)」で、以来この梅を「光琳の梅」と呼ぶ。 

井上社へ。

 

<井上社>

 

井戸の上に祀られていることからその名がありますが、別名御手洗社とも。瀬織津姫命をお祀りするお祓いのお社です。

お社の前には清らかな水を湛える御手洗池が。

 

<御手洗池>

 

7月土用になると清水が湧き出る池で、鴨の七不思議に数えられる。葵祭の際「斎王代御禊の儀」が執り行われる場所で、土用の丑の日の「足つけ神事(御手洗祭)」、立秋前夜の「矢取神事」は京の風物詩として知られてる。

「わー、写真で見たまんま♪」憧れの光景を前にして、かねし大歓喜。飛び出すハート

みたらし団子の起源という水泡も見てみたかったけど、時期的に無理みたい。汗

でも瀬織津姫さまが鎮座されているその場所はとても清々しくて、心地よくて・・・いつまでも佇んでいたくなる。

 

<御手洗池といえば!の水みくじ>

 

後ろ髪ひかれる思いで御手洗池を後に。境内社にお参りしつつ西参道へ向かいます。

  

<三井社>

 

「風土記」山城国賀茂社の条に「蓼倉里三身社(たでくらのさとみつみのやしろ)」、「延喜式」に「三井ノ神社」とある神社。奈良時代から平安時代にかけてこの辺り一帯は蓼倉郷と呼ばれていた。

三身社とは御本宮の賀茂健角身命、その妻・伊可古夜日売命、その子・玉依媛命のことで、三神が祀られている。

西側の末社(諏訪社、小杜社、白髭社)は平安時代の当神社社頭絵図「鴨社古図」に描かれている神社で、各社の位置等は未だ不明。糺の森を禁足地とし自然の中に祀っていた古代神社の姿を今に伝える。

下鴨神社のお社はいずれも重要文化財に指定される貴重なものですが、こちら出雲井於神社の御社殿は寛永6年(1629年)式年遷宮の時、先の式年遷宮(天正9年(1561年)に造替された御本宮の本殿を移築したもので、当神社の中で最も古い社殿とのこと。

 

<出雲井於神社>

 

御祭神は健速須佐之男命。周囲にどんな木を植えても葉がギザギザと柊葉のようになることから、通称比良木社(柊社)とも。

ご由緒によると「井於(いのへ)」とは鴨川のほとりのことで、出雲井於神社とは「出雲郷の鴨川のほとりの神社」という意味だとか。

「京都にあって出雲とは・・・?」と思い調べたところ、その昔鴨川の西側は出雲郷と呼ばれ(今も「出雲路俵町」等地名として残っている)、出雲系氏族が居住していたとのこと。その出雲氏の祖先は鴨氏と同じだそうで。そういえば「古事記」の崇神天皇の項にも「オオタタネコは鴨君の祖である」と書いてありました。

 

【大物主神の祟りとオオタタネコ】

 

御本社本殿の前に鎮座する言社を見て、これほどまでに出雲系の神さまを丁重にお祀りするなんて!と驚いたけど、鴨氏と同じ祖先に属するというのなら納得です。でももし国譲りのようなことがこの地であったのなら、それはまた別の意味になりそう。(祟り神だけに・・・)

 

閑話休題―

 

<出雲井於神社の近くにある供御所(くごしょ)>

 

御殿の中は東、中、西の三間に分かれている。「東の間」は神饌を調理するところ、「中の間(贄殿)」は魚介鳥類を調理する間、「西の間(侍所)」は神官等が参集し、直会、勧杯の儀などを行う。

入母屋造、檜皮葺、桁行九間、梁間三間。

神饌の御料を煮炊きする大炊殿(おおいどの)を遠目に拝見し、

 

<大炊殿>

 

最後に印納社、愛宕社(おたぎしゃ)と稲荷社(なぜか画像がない汗)とお参りし

 

<印納社>

 

使わなくなった印鑑を奉納するお社。毎年10月1日には「印章の日」を記念して、長年使用した古い印鑑を納める祈願祭(印章祈願祭)が行われる

西口鳥居から出て下鴨神社前バス停に。

 

<市営バス>

 

4番系、14時39分発の上賀茂神社・西賀茂車庫行のバスに乗り、上賀茂神社に向かいました。

 

クローバー おまけ クローバー

参拝の記念に、下鴨神社の御神紋・双葉葵がデザインされたタオルハンカチを。

 

 

実はお参りに来たというのにハンカチを忘れてしまいまして。(どれだけ舞い上がってたんだか・・・ちなみに手水のときは相方に借りました。)

双葉葵の御紋がかわいくて、何か御紋が入った品を授かりたいなぁと思っていたところ、こちらのハンカチを見つけました。御手洗池の授与所限定だそうです。

ハンカチ忘れてよかった。(笑) 

 

・下鴨神社(賀茂御祖神社):京都府京都市左京区下鴨泉川町59 HP