蝋燭の灯りを頼りに、筆を動かしていた番頭さんが、低く呻いた。
「あかん、また書き損じてしもた」
「綺麗に書かなくても平気だと思います。読める程度で」
奉行所に呼び出されていた番頭さんが、私の部屋に顔を出したのは、月の光が斜めに差し込む時刻になってからだった。
戻ってきたら必ず部屋まで来て欲しい。眠っていたとしても、起して欲しい。大切な用があるからと、染次んに伝言を頼んでおいた。
紙屋川に浮かんだ女性の遺体。その正体が、夕霧太夫で間違いなかったと告げられた時の、胸をメッタ刺しにされたような痛みは、今も消えずにいる。
死因は水死。遺体に外傷はなく、腰には切れた荒縄が。遺体発見場所より上流で、同じく荒縄でくくられた石が見つかったと言う。つまりは、覚悟の自死。
「そんなの、わからないじゃないですか。殺してから、石を結びつけたのかも」
奉行所の下した判断をどうしても認められず、食い下がる私に番頭さんが首を振った。
「首ぃ締められたような痕も、殴られたような痕もなかったそうや」
それにな、と言葉を切って、ふぅっと息をつく。
「綺麗な顔してはった。火傷の痕には驚いたけど、穏やかなええ顔でなぁ。あない太夫、ミセにいた時分にも見たことない」
まるで菩薩どしたと続けられ、涙が溢れ出た。
「ああ、堪忍。具合の悪いあんさんに聞かす話とちゃいましたな。何の用か知らんけど、明日にしよし、な。早よう休んだ方がええ」
中腰になった番頭さんに促されるも、そうはいかない。
涙以上に吐き出したいものは溢れんばかりだったけれど、それは番頭さんにぶつける筋のものではない。
嗚咽を必死で噛み殺し、私は番頭さんに、今からする話を、土方さんへの文として代筆してもらうよう頼んみ、昨夜の顛末を語り始めた。
少々派手な痴話喧嘩の末の早帰りくらいに思っていたのだろう番頭さんには、寝耳に水どころか、寝耳に土石流だったようで。
私の語る一つ一つに、時には嘆息し、時には呻吟し、時には驚嘆し、その度に筆を誤って頭を抱えているのだった。
顛末と言っても、全てを語ったわけではない。土方さんへの報告のための文なのだから、改めて語る必要のない刺客との立ち回りのくだりは割愛。そして、香のことも口に出せなかった。
(お夕さんが自死じゃなければ・・・・・・)
昨日の今日で殺害されたのであったなら、また違った判断をしていただろう。
でも、全てがあやふやな今、私にできることは、身辺には重々気をつけてくださいと書き添えてもらうことだけだった。
語れることは語った。
後は土方さんの判断に委ねよう。
土方さんの洞察力と、新選組の機動力をもってすれば、私の出せなかった結論も、いずれは出るのではなかろうか。
―――返事は、翌日中に届いた。
文面は、「承知、いとえ」と電報よりも更に短かったけれど、同封されていた赤い結い紐が、どんな言葉よりも深く、土方さんの思いを物語っていた。
魔除けの、赤。
土方さんの下げ緒と同じ色。
(―――土方さん)
会いたさが募るのをぐっと堪え、私は枕元で冷えるままになっていた行平(ゆきひら)を引き寄せた。
飴色の蓋を開ければ、磯の匂いがぷんっと薫る。
出来立てならさぞおいしかったろう青粉のおかゆも、冷めてしまって糊のよう。
食欲のない今は、飲み込むのにも苦労する。
それでも、時間をかけて食べきった。
ごちそうさまと手を合わせた時、記憶の端を掠めるものがあった。
毎食後、祖母が口にしていた言葉。
(清き、なんとか・・・なんだっけ)
とてもいい言葉だったように思うのだけれど、どうしても全容は捉えきれず、思い出せた部分だけを口にしてみた。
「心豊かに、力身に満つ」
おかゆは、胃に。
文は、枕下に。
赤い結い紐は、手首に。
心に豊かさを、身に力を与えてくれたものたちを、それぞれ納めて眠りに就いた。
線虫の夢は、もう見なかった。
変わりに、声を聞いた。
男のものとも、女のものともつかない、奇怪な声は、繰り返しこう言っていた。
しぶといねぇ、根競べだよ――――――と。