枡屋さんとの一件があってから七日、山崎さんは一度も姿を現さなかった。
彼が現れないということは、すなわち市中探索が忙しいということであり、それはつまり京の市中に新選組が警戒を強めないといけない何事かが進行しているという証でもある。
それだけに彼の不在に不安を煽りたてられ、少しの間見なくなっていた悪夢をまた見るようになった。
―――血の色の夢だ。
ぼんやりと霞みのかかった視界に、点々と血の色が散る。
肉の落ちた誰かの背中を私は懸命に擦っている。
高杉さんだろうか・・・背を擦る私とは別の私が、ぼんやりとそう思う。
長州に帰ると言っていた高杉さんの病状が悪化したという報せなのだろうかと。
「高杉さん?」
呼びかけてみれば、背中の主は、ゆっくりと私を振り返る動きを見せる。
けれど、振り返る直前に、私はいつも目覚めてしまう。
炎天下に繋がれた犬のようにはっはと浅い息を吐き、全身に嫌な汗をかいて。
高杉さんの近況を、秋斉さんなら知っているかもとは思えど、体調の不良を誰にも言うなと釘を刺された手前、なんと尋ねていいものやら判断がつかずにいる。
高杉さん以上に心配なのは、枡屋さんだ。
その後彼がどうなったか気がかりでならなかったものの、暫くはお互いに接触しない方が余計な疑いを生まない気がしてそのままにしている。
(山崎さん、いるかな。いるといいのにな・・・・・・)
あの無表情で、「万事順調です」とでも一言言ってもらえたら、気分が楽になるのに。
山崎さんが順調だと言ったとて、高杉さんや枡屋さんの無事とはなんの関係もないとわかってはいても。
竹刀を携えて置屋を後にし、いつもの神社へと向かおうとしたところ、背後から無造作に肩を掴まれた。
ぎょっとして振り返った先には、不愉快な目覚めを更に不愉快にさせる人が立っていた。
ちょっと珍しいくらいの長身。高い鼻梁に完璧な二重瞼。この時代の日本人らしからぬ彫りの深い貌は、澄ましていれば男前なのに、言動が全てを台無しにしてしまう男。
―――原田さんだ。
右腕には小柄な遊女がしなだれかかっている。
情を交わした男女特有の親密な空気を色濃く漂わせる彼女に対して、原田さんはいたってあっさりしたもので。
「ちょいと、こいつと話があるから見送りはここでいい」
「まあ、つれないこと言わはるわぁ。わてはこんなにお名残り惜しいというんに・・・・・・」
「悪りぃな、きっとまた呼ぶからよ」
そんな会話を展開したかと思うと、あろうことか私の目の前でキスを始めた。
往来で。恥をしれ。
だいたい人を止めておいてなんなのだ。
ほっとこう。
待ってる義理も見学する趣味もないので、私はそそくさと彼らの脇をすり抜け駆け足で神社へ向かった。
原田さんはすぐさま追いついてきて、「目の毒だったか?」などとほざいたが。
話とは何かと尋ねても、「いいから、いつも通り稽古しろよ」と流されて、私は原田さんの視線に晒されながら素振りを始めた。
「屯所にっ、帰らなくていいっ、んですかっ」
「いいんだよ。これも仕事なんだから」
「遊郭でっ、遊ぶっ、のが仕事っ?」
いつも忙しそうな土方さんや、任務中は食事をとる暇も寝る時間もほとんどないと言っていた山崎さんや、新選組に与えられた役目に忸怩だる思いを抱えているようでいて、真面目に取り組んでいる藤堂さんを思うと、原田さんを非難したい気持ちが三割増しで湧いてくる。
竹刀を振りながら、思い切り冷たい視線を送っってみるも、原田さんは平然と頷いた。
「おうよ。遊郭はネタの宝庫だ。男も女も閨(ねや)では口が軽くなる」
なにその、枕営業!
唖然として思わず素振りを止めてしまった私に、原田さんが怠けるなと顎をしゃくってよこす。
「さすがに藍屋の女は口が堅ぇけどな。オンナによっちゃ、客の流れから、どっかのバカが自慢げに話した暗殺の企てまで幅広く拾えるぜ?」
伝え聞く原田さんや永倉さんの派手な遊びっぷりも、ただ遊んでいるわけではないってことか。
でも、永倉さんにそんなスパイみたいな仕事ができるとは思えない。
むしろ漏らしてはいけない情報を漏らしてしまいそうな・・・と、永倉さんには失礼なことを考えつつ素振りを再開しかけた私は、ふと思い当たってまた手を止めてしまった。
「それって・・・そういうことって、土方さんもなさるんですか?」
そう口にした途端、原田さんがにやぁっとなんとも嫌な笑いを浮かべ。
しまったっと思った時にはもう遅かった。
「してたらどうなんだよ?悋気を起こすのか?痴話喧嘩するならぜひ呼んでくれや。芝居見物より楽しそうだ」
生肉を見つけた野犬もかくやという勢いで絡まれる。
相手にしてはいけない。
ムキになればなるほど、この人は喜ぶのだから。
脳裏を駆け巡った嫌な想像を振り払うべく、私は一心に竹刀を振った。
反応がなくてつまらなくなったのか、その後は原田さんも大人しく私の素振りを眺め、仮想敵との斬り合いを始める段になると、「脇が甘い」とか「腰を落とせ」など助言をしてくれるようになった。
道場剣しかしらない私には、山崎さんより更に実践的な原田さんの助言ははっとさせられることが多く、不本意ながらも実入りある鍛錬になった。
感謝の意を伝えると、僅かに伸びたヒゲが気になるのか、顎を撫でまわしながら原田さんはしげしげと私を眺めた。
「山崎に聞いてはいたが大したもんだな、お前」
そう褒められてつい、頬が緩む。
懸命の努力を評価してもらえるのは嬉しいものだ。
地面に胡坐をかいた原田さんに座るよう促され、示された位置より少し離れて腰を落とす。
根本的には悪い人ではないと思うのだけど、今まで散々からかわれたり悪戯されたりしているので、やっぱり警戒してしまう。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、原田さんは唇の片端を吊り上げて笑った。
「お前、六尺はあろうかってぇ大男を蹴り一発で仕留めたってぇのは本当か」
「あー・・・・・・」
「博徒三人相手に大立ち回りしたってぇのは?」
「えーと・・・・・・」
「喧嘩を止めに入って両方とものしちまったてぇのは?」
どれがいつだったかは記憶にないけど、全部事実だ。
一つ尋ねられる度に私の目線は下がり、原田さんの声は堪え切れない笑いに震え始め、最後には爆笑に変わっていった。
「すげぇっ。お前もすげぇが全部掴んでる山崎もすげぇっ」
「出所は山崎さんですか・・・。ってことはやっぱり・・・・・・」
「当然、土方さんの耳にも入ってんだろうな」
「うわぁ・・・・・・」
ふつふつと湧き上がり、混じりあう思い。
土方さんに全部筒抜けだったという羞恥と、私には何も言わなかったくせに土方さんには逐一報告している食えない山崎さんへの不満と。
・・・全部知ってていて尚、それが私だと理解し認めてくれた土方さんへの思慕の念と。
熱くなった頬を両手で押さえて原田さんを見やれば、まだ少し笑いの余韻を漂わせたままの彼は、なんだからしくない複雑な色の視線を私に向けてきた。
そもそも話があるからと付いてきたのだった、この人は。
まさかわざわざ私の武勇伝を笑いに来たわけではあるまいし、稽古をつけにきてくれたわけでもないだろう。
「・・・なんか、ありました?」
真
意を問おうとして口にした言葉に、原田さんは少し驚いた顔をして。
これまた彼らしくもなく言いにくそうに唇を歪めた。
「お前、土方さんから聞いてるか?」
「なにをです?」
聞き返すと、原田さんは私に視線を据えたままゆっくりと顎へと手をやった。
言おうか言うまいか迷った様子で、何度か顎をさする動作を繰り返した後。
「近藤さんがよぉ・・・新選組を解散したいって言うんだ」
そう打ち明けて、心底参ったとでも言いたげに髷に指を突っ込んでがりりと掻いた。
意表を衝かれる告白に思わず見上げた空は、重た気な雲が垂れこめている。
ついこのあいだまで桜が咲いていたような気がするのに、もう梅雨の時期が近付いているのだ。
不快な汗を滲みださせる湿気のように、不安がじわり肌に纏いつくのを感じて、私は蒸し暑さも忘れ、ふるりと身体を震わせた。