第五部・六ノ四話(土方) | さらさの「粗野がーる」

さらさの「粗野がーる」

アメーバの携帯ゲーム「艶がーる」の主人公を、28歳・恋愛偏差値20の女性に置き換えた実験的小説を書いています。

あくまでフィクションなので、深く考えずに読んでください

回収した茶屋株料をしまい込むと、袂がずしりと重くなった。

この銀子は、藍屋が年を越すための大事なものだ。

安全を考えれば、早く大通りに出た方がいい。

それでも、私の足はついつい小道へ逸れた。

立ち並ぶ茶屋や料亭、いずれかの戸口から、秋斉さんが現れはしないかと。


ちらちらと左右に視線を走らせ、時折振り向きながら小路を歩く。

できるだけ歩調を遅らせたものの、藍の羽織を見つけることもなく、すぐに大通りへ出てしまった。

一体いつのまに出て行ったのかと、一様に首をひねった番頭さんや男衆たちの顔が脳裏をちらつき、私の爪先を迷わせる。

小路へ引き返すか、大通りへ踏み出すか。


(―――気にしすぎ、かな)


秋斉さんの外泊なんて、珍しいことじゃあない。

あれから三日になるけれど、もっと長い不在などいくらでもあった。


(―――だよ、気にしすぎ)


銀子で重い袂に背中を押された。

早く帰って、番頭さんの手伝いをしてあげなくては。


寒さが増してくると、行き交う人の足取りは早くなる。

まだ霜月も始めだけれど、うかうかしていると師走はすぐそこ。人々にとっては、一年分の支払いを算段しなければならない時期なのだ。


人の流れに身を任せ、島原に向かって歩きながらも、鼻腔にはさきほど嗅いだ侍従の香が消えずにあった。

残り香が連れてくる、甘やかな記憶。


―――やけに匂うな


離れていた時間と、互いの不安を埋めあった後、背後から私を抱きかかえたまま、土方さんは言った。

汗をかいてしまったから、と身を捩り、顧みた土方さんの目は、閉じられた襖に注がれていた。


―――留守だと聞いたが


匂うのは、香だと気づいた。

私の鼻はもう慣れてしまっていたけれど、外から来た土方さんには気になる濃さだったのだろう。


―――ところでお前


窓を開けましょうかと尋ねた私には答えずに、土方さんは別の話題を振ってきた。


―――俺が怒っていたワケを、きっちり飲み込んだんだろうな


へ、と気の抜けた声が出た。

まさか、そこに戻るとは予想外だった。


病を知らせなかったから、というのは不正解なのだったっけ。

知らせたくなかった私の気持ちを、土方さんはしっかり汲み取っていたのだから、違ったのだ、確か。

でも、じゃあ、なんでなんだっけ。

正解を聞く前に、キスされてそれで・・・・・・。


惑う私に、大きな溜息が降ってきた。

とんっと肩を突かれ、窓を開けようかと中腰になっていた私は尻餅をついた。

その鼻先に突きつけられたのは、文。

秋斉さんの言いつけ通り、丁寧に時間をかけて書き上げた「蝉と蛍」の文だった。


―――誰の入れ知恵だ。菖蒲か、玉緒か


正直なのは、私の取り得だと思う。

ただ、取り得ってやつは、しばしば欠点にもなり得るもので。


図星を差されて泳いだ視線は隣室へ流れ、土方さんの不機嫌な唸りで引き戻された。

眉間に渓谷。こめかみに稲妻。


―――こんな気の利いた文が、お前に書けるわきゃねぇ。それに気づかずのぼせる俺じゃあねぇ


キリキリと噛み締めた歯の間で嘯き、土方さんは私の労作をくしゃくしゃと丸めた。


―――腹立ててのこのこ来ちまうことまで、お見通しってわけだ


土方さんの発する怒気がピリピリと肌を刺し、正直、彼の言葉を咀嚼しきれていない私は焦りに焦った。


下手な字でも、拙い言葉でもよかった。自分の力で書くべきだった。

男心を鷲づかみにできると聞いて、飛びついた私が浅はかだったのだ。


ごめんなさい。

でも、あの。

逢えて。

こうして、逢えて。

逢いにきてくださって。


焦りと後悔に喘ぎながら、訴えた。


嬉しかった。

嬉しいです、

嬉しい。


真心を伝えるには、手練も手管も必要ない。

小学生並の語彙でもいい。


それを証明するかのように、土方さんは首っ玉にしがみついた私を抱き締めてくれた。

真心を届けたい相手、受け止めてくれる相手がいる幸せは、日が経った今も私を温めてくれている。


「姉さん、楽しそうやな」

「――――――!」


不意にかけられた声に、ぎくりと足を止めた。

いつの間にか、肩を並べている人がいる。

見知らぬ男性だ。

身につけているものや髷の具合からして、きちんとしたお店者に見えるものの、油断はならない。


「あんたもアレか。お札か?」

「お札?」


咄嗟に袂を押さえた私の不審げな視線をものともせず、男性は懐から、伊勢神宮のものだろうか。

「天照皇大神宮」と記されたお札を取り出した。

聞けば、今朝、庭先に落ちていたのだという。


「わて、この夏に店ぇ出したばっかりなんや。こないご時勢で不安ばっかしやったけんど、これでうまいこといくやろう。世直し万歳や、なあっ」


そうですね、にっこり―――は、できなかった。

私は、大人のはずなのに。


頬を強張らせるばかりの私を気にも止めず、男性は「ほな、お達者で」と一方的に告げ、角を曲がって行ってしまった。


甘い追憶が灯した胸の火を吹き消されたような気持ちで、私は暫しその場に佇んだ。

幾人もの人が、私を追い抜いていく。

どの顔も、以前より明るさを増したように感じる。


遠く、呼子笛の甲高い音が響き、私は冬空の下、奔走する親しい人々を思った。

何が正しくて、何が間違っているのか。

どちらが前で、どちらが後ろなのか。


(わからない、私にだって)


ざらついた気分で、島原へ戻った。

置屋では、半べそかいた番頭さんが待ち受けていて。

台所仕事から針仕事、巻き割りや水汲みの力仕事、果ては番頭さんの読み上げる数字を算盤で弾く帳場仕事まで、こなすべき仕事は山積みだった。

すべきことがあるというのは、なんて幸せなのだろう。

どうにもできないこと、手の届かない場所を忘れていられる。


数日、私は忙しく過ごした。

持ち場を離れて他出する男衆たちは、戻ってくるたびに何か言いた気な顔をしたが、誰も何も言わなかった。

もちろん、面倒をかけて申し訳ないとか、そのような詫びや労わりの言葉はかけてくれるのだけれど、それ以上はなにも。


きっと、誰もが何かしらかを胸に抱え、何かしらから目を逸らしていたのだ。

まやかしの平穏は、長持ちはしない。


異変は、匂いから起きた。

匂い、もしくは臭い。


そこかしこに染み付いて、秋斉さんの不在を埋めていた強く強く焚き染められた侍従の香が、薄れ消え去ると同時、「それ」はやってきた。


台所の板間から奥へもどる廊下で。

締め切られた秋斉さんの部屋の前を通るとき。

障子を開けて、自室へと足を踏み入れた瞬間。

「それ」は、臭った。


冷蔵庫の中で忘れ去られた、豚コマ。使い切れず半身残したままにしていた、鶏モモ。

変色し、ぐずぐずと腐りゆく肉の臭い。


主不在の部屋に立ち入ることならず―――藍屋の不文律が随分番頭さんを悩ませたけれど、日一日と強くなる臭いが、ついに彼の背中を押した。


「さくらはん、見てきてくれるか。わてが立ち入るより、あんさんの方がええやろう」


誰もいない部屋で、肉の腐る臭いがする理由。

考えられるのは、ネズミだ。

クロがいなくなってから、ネズミが増えた。

昨夜も二階で大騒動があったばかり。クロがネズミを捕まえたことなど一度もなかったけれど、それでも抑止力にはなっていたのだろう。

どこからか、恐らくは、一時開け放たれていた窓から入り込んだネズミが死んだ。

年中置いてある長火鉢の引き出しには、お餅や糊の他、薬種もしまわれていたから、毒になるものでも食べたのかも知れない。


ネズミの死骸を探すためには、あちこち覗いて回らねばならない。

奉公人としては気の引ける行為だ。

その点、私は奉公人ではなく、慶喜さんからの預かりもの。実情はどうあれ、身分は客だし、身内も同然の扱いを受けている。

そもそも、奥座敷に住まわされているのがその証。

だから、部屋を改めるのは私が適任。


番頭さんは、まことしやかに主張するが、要は腐ったネズミを見たくないのだ。

私だって見たくはないけど、仕方がない。


死骸を処理するための火箸と桶を手に、長らく締められたままの障子を開けた。

微かな軋みとともに開いた障子の向こうから、むわっと押し寄せてくる異臭。

それを抜きにすれば、中の様子は先日と変わりない。


中ほどに、伏籠に被せられた羽織。

散乱した、紙くず。

出しっぱなしの硯や、筆。

あの時開いていた窓は、雨戸が立てられている。

あの日は雪が降っていたから、番頭さんが閉めたのだ。その時ネズミに気づいてくれていたら、こんな面倒にはならなかったのに。


雨戸を立てた部屋は、昼間といえども薄暗い。

廊下からの光を頼りに、私は臭いの元を探した。

といっても、広い部屋ではない。文机が臭いの元だとすぐ知れた。

となれば、机の下か。暗いまま潜って腐乱したネズミに手探りするのは、ゾッとしない。まずは雨戸を開けることにしよう。


雨戸を開け放つと、充分な光が入り込んできた。

吐き気を催す臭いも、多少はマシになる。

冬枯れの裏庭は、陽光の下で尚寂しさを感じさせた。


「さて、と」


嫌な仕事はさっさと済ませてしまうに限る。

明るくなった部屋を顧みた私は、不審なものを見つけて眉を寄せた。


雑然とした文机の上に置かれた、正体不明のもの。

白っぽい筒状で小指ほどの長さのそれは、秋斉さんが出て行ったあの日、既に残されていたものだった。

遠目でなんだかわからなかったものが、今やはっきり目に入る。


まさかの思いで近づいて、確かめた。

手拭で覆っていても、鼻をつく腐乱臭。


―――指、だった。


白い懐紙を薄黄色い液で汚し、ところどころ青黒く変色してぶよぶよとしたそれが、根元から切断された人間の指だと認めた途端、くぐもった悲鳴が、逆流してきた胃酸と混ざって溢れ出した。


続く


初出2017/05/21