社会運動家として、キリスト教伝道者として、その生涯を人間愛に生きた賀川豊彦。1909年(明治42年)12月24日のクリスマスイブ、神戸の貧民街に移り住み、救済活動と宣教に努めました。『貧民心理之研究』から当時の住宅事情に触れた部分を引用してみます。
「神戸の貧民窟というのは七ヶ所ある。……しかし、最も激しいのは私の住んでいる新川の貧民窟で、神戸でも一番人口の密な処である。……東京にもよくあるが、日本で一番野蛮な貧民窟名物二畳敷というのがある。棟割長屋の汽車のようなものに一坪半ぐらいの家が鈴なりに連なっているのである。そして畳が二畳敷。それに或る家には九人も住んでいるものがあった。」
『精神運動と社会運動』(1919年)によると、人口8000人に対して水道活栓はわずか5個しかなく、多くは不潔なる井戸にその飲料水を仰いでいたといいます。トイレや入浴場も非衛生的で、伝染病の温床となっていたようです。
神戸の貧しい人々が多く暮らす街に、賀川豊彦が移り住んだ家は、表三畳、裏二畳、五畳敷の一部屋でした。以前そこで殺人があり、飛び散った血痕が壁に残され、夜になると幽霊が出るとか出るとかで、借り手のない事故物件でした。
豊彦の心にあったのは、生活に困っている人々を自宅に泊めて救済活動をしていた命の恩人長尾牧師の存在でした。21歳にして自らも救済活動に乗り出したのです。その後、ボランティア組織「救霊団」を結成して本格的な活動を開始するとともに、キリスト教を説き、精魂を尽くした豊彦の姿は、のちに「スラム街の聖者」と呼ばれるようになりました。
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