さて問題です。「スエは博士か、大臣か?」。これってクイズなんですか。昔、子供の将来を期待してよく語られた、もはや死語のような言葉なのでは……。

 朝ドラ『らんまん』は終わってしまいましたが、牧野富太郎博士の妻は壽衛(すえ)さんといいます。ご主人が博士で、すえさんは大蔵大臣といったところでしょうか。昨今は大臣といっても、あまり褒め言葉にならない世の中になってしまいましたが。

 富太郎は、実家からの仕送りで植物研究と生活費を繋いでいましたが、祖母浪子が亡くなり、1893(明治26)年31歳の時に帝国大学理科大学の助手に任命され、はじめて俸給によって生計を立てます。しかし、養育費や採集旅行のための出費、必要な文献の購入なと、月給だけでは生活することが困難となり、高利貸しからの借金は膨らみ、生活を切り詰めても返済が滞る日々が続きました。研究のための借金が嵩み生活苦が続きます。

 壽衛は30年以上、苦労を苦労とも思わず、子供たちを学者の子として立派に育て上げるため、ひもじい思いをさせないよう努め、富太郎 には植物研究に集中できるよう励まし続けまし た。「いやな顔一つせず、一言も不平を言わな かった」と、後に富太郎は、当時の貧しい生活 の様子と妻への感謝の言葉を語っています。

 案内用のポスターには次のようなエピソードが書かれていました。



 妻への愛と感謝

 新居を構えた翌年、壽衛は体調を崩し寝込むことが多くなりました。病床にあっても、富太郎の研究を心配する壽衛でしたが、新居が完成して力尽きるかのように、1928(昭和3)年2月23日 に永眠しました。富太郎は、壽衛が亡くなる前年に、仙台で採取したササの中から新種を発見します。限りない植物研究への励ましと愛を捧げてくれた妻へ、感謝と敬意を表し、そのササの学名をSasa suwekoana Makino、和名をスエコザサとし発表しました。富太郎はスエコザサを自邸の庭に植栽しました。現在スエコザサは、我が植物園として富太郎がこよなく愛した自邸の庭を公開する「練馬区立牧野記念庭園」と、富太郎の意志を受け継ぐ 「高知県立牧野植物園」、生誕地である佐川町の「牧野公園」で、力強く生い茂っています。 富太郎の植物解明という志を一番に理解し、家族を愛し、守っていく強い意志を買いた壽衛。どんなにつらい状況に直面しても、弱気にならず前だけを見て突き進んだ生涯でした。富太郎と壽衛は、夫婦愛という言葉を超えて、固い絆で結ばれていたにちがいありません。


 「家守りし妻の恵みや我が学び」

 「世の中のあらん限りやすゑ子笹」

 牧野植物園展示館入口には、スエコザサに囲まれ、2つの歌が刻まれた歌碑が立っています。



今まで一番感謝していることは?


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