約百年前にハワイで宣教師として活躍した人物がいました。奥村多喜衛(おくむらたきえ、1865−1951年)です。彼は「ハワイに高知城を建てた男」と呼ばれています。二つ名といったところでしょうか。

 当時、アメリカ領ハワイ準州のホノルル日本人教会(現在Nuuanu Congregational Church) は歴代の牧師ほとんどが同志社の卒業生でした。同志社の神学校別科で神学教育を修めた奥村は、ホノルルの教会を経て、新しく日本人街が形成されつつあるマキキ地方への伝道を開始することになり、最終的に高知城そっくりのマキキ教会(Makiki Christian Church)が誕生します。



 明治時代になってハワイへの移民が公式に許可されるようになり、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡りました。
 官約移民は「3年間で400万円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われましたが、その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近い過酷な労働でした。大変な苦労をした人々も多かったことでしょう。
 1900年のハワイの統計によりますと、ハワイの全人口の40パーセントが日本人だったといわれています。そうした日本人人口の大きな増加の流れのなかで、現地の日本人同胞は非常に厳しい状況におかれ、たくさんの課題も生まれてきました。いわゆる二世問題と排日問題です。
 子供たちはアメリカの準州であるハワイで成長していくわけですから、どんどん日本語を忘れていきました。そうかといって英語も不十分です。親子のコミュニケーションすらできないという状況を打開すべく、子供たちにしっかりと日本語を学んでもらおうと、奥村は日本語学校を設立し、青年の教育のためにキリスト教青年会(YMCA)を組織するわけです。
 さらにさまざまな製糖プランテーションの労働者の子供たちのための精神教育・生活教育を行うために、奥村ホームを設立します。親がさまざまな事情で亡くなったり、または逃亡してしまったり、当時の日本人の子どもたちのおかれた環境は非常に過酷であったのですが、身寄りのない子供たちを引き取って精神教育をする場として寄宿舎を設立することになります。
 さらに1920年代には、排日問題を解決するため、政治的な課題に取り組む教育運動を始めました。同胞社会のアメリカ化、同化をスローガンに排日予防啓発運動を起こしたのです。
 今また、UPAの卒業生がアメリカ宣教に行くという話を聞きました。日本が「母の国」と呼ばれているのは、世界へ出て行った先人たちの献身的は働きがあってこそ。そのような先輩たちに学び、さらに大きな活躍をしてきてほしいと願います。


移住するなら暑い国?寒い国?


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