8月16日は「五山送り火の日」。送り火とはお盆の行事の一つで、お盆に帰ってきた死者の魂を現世から再びあの世へと送り出す行事である。山の送り火としては、京都の五山送り火が有名だが、見た目の印象から「大文字焼き」と呼ぶのは誤りだそうだ。



 なお、この京都の行事にならって、高知県四万十市(旧中村市)間崎でも「大文字送り火」が行われている。応仁の乱を避けて都から四万十市中村地区に下向した前関白の一条教房らの精霊送りのため、息子の房家が京都五山の送り火にならって始めたと伝えられてきた。

 従三位・一条房基の子、一条兼定は戦国時代から安土桃山時代にかけての公家。豊後国の大友義鎮の長女を娶り大友氏と結んだ。天正三年(1575年)に宣教師ジョアン・カブラルから洗礼を受け、キリスト教に入信した。霊名はドン・パウロ。

 ところで、熊本県天草地方の金子家の先祖は、伊予国新居郡(愛媛県新居浜市)金子城城主・金子元宅の家系に連なると伝えられてきた。四国から九州へと落ち延びるためには金子氏が頼った人物がいたはずである。それが当初は豊後水道をつなぐ一条―大友ラインだったのではないかと考えた。確かに天草五人衆が大友氏と接点を持ったこともあるが、あまりにも線が細すぎる。

 もしかしたら、同じキリシタン大名でも小西行長のほうではないかと、こちらを本線に考えるようになった。小西行長は小豆島を経て肥後宇土城主となり、肥後半国を領地として得ている。アウグスティヌスの洗礼名を持つ。

 豊臣秀吉の四国攻めで伊予・金子城が攻め滅ぼされると、金子元宅の子孫たちは土佐国に庇護されていたが、土佐国とつながる接点として家臣・淡輪氏(和泉国淡輪荘の国人で本姓は橘氏)がいる。この淡輪―小西ラインが四国と天草をつなぐ線として新たに浮上してきたのだ。

 金子元宅の次男・元雅(毘沙寿丸)は長宗我部氏に仕え、後に長宗我部盛親配下として大坂夏の陣で豊臣方に加わり、大阪城落城後に逃げ帰って、現在の愛媛県伊予郡双海町高野川へ。子孫は大洲藩主の倉奉行となり明治まで仕えた。一部の郎党は西海(九州天草)へ落ち延びたと伝えられている。

 お盆はやはり先祖が近くなる時だが、果たしてこの新しい情報は事実なのだろうか。しっかりとした検証が必要かもしれない。



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