「日は混み(1853年)合ってペリー来る」。黒船4隻が浦賀に来航して、翌年日米和親条約締結。さらに1858年、日米修好通商条約により横浜・長崎・新潟・兵庫・函館の開港が取り決められた。



 6月28日は「貿易記念日」。そのきっかけとなった日米修好通商条約はアメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。

 なぜ、当時の日本が次々に欧米列強と不平等条約を結ぶようになったのか疑問を持つ人もいるだろう。しかし、この頃の江戸幕府中枢は国際情勢をよく理解して、機敏な対応をしているように感じる。

 「人や知れ(1840年)アヘン戦争」。眠れる獅子と呼ばれていた大国清がイギリスとの戦争に敗北した情報は、次の標的は日本かもしれないとの危惧をもたらした。鎖国しているとはいえ、オランダからの翻訳書を通して、必要な情報はキャッチしていた。ヨーロッパでの国同士の争いが、世界に拡大して植民地争奪戦を展開していたことも……。



 「19世紀、西欧列強の東アジア進出に際して、幕末期の日本は中国や李氏朝鮮とは異なる対応をした。……幕府が大船建造を禁止したのは三代将軍徳川家光の時であったが、それをいともあっさりと撤回している」(『江戸思想史の再構築』前田勉著、2023年)とあるように、従来の伝統・規則や既成概念に囚われない現実的で柔軟な政策を採った。

 開国することによって一時的な不利益もあり、プライドを傷つけられたことも多かっただろう。その後の歴史を見ると、時には間違った選択をすることもあったかもしれない。それでも門を閉ざし続けることはできない。正しい情報に耳を傾け、今できる必要な一歩を踏み出していくしかないのだから。



海外土産でうれしかったものは?

マトリョーシカ

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