昨日、東京の知り合いから花見の話題が出た。「まだ五分咲きくらいかな」と答えたものの、今朝、近所の桜の木を見たら三分咲き程度だろうか。首都圏のほうが開花が早そうだ。



 3月27日は「さくらの日」。残念ながら櫻坂46推しではないので、別の話題で。『小林秀雄講演 第1巻―文学の雑感 [新潮CD] 』に、山桜をこよなく愛した桜の大家の話が出てくる。

 親の代からの財産を全部使って山桜の復興に取り組み、橿原神宮の参道に無償で植樹をしたが、戦争の時にすべて切られてしまった話。桜の苗木を育てるのに適した土壌を苦労して見つけたのに、その苗床が新幹線建設のために替え地をあてがわれ、NHKラジオがそれをゴネている例として紹介したことなど……。

 桜の季節が巡って来るたびに、かつて小林秀雄が語った桜男のことが思い出されて、ずっと気になっていた。もしかしたら、在野の桜博士といわれる笹部新太郎(1887~1978)氏のことであろうか。笹部さんは明治20年大阪堂島生まれ、東京大学法学部在学中から桜に情熱を抱き、名桜の保存と桜の品種改良に寝食を忘れて取り組んだ人である。

 厳父浅吉さんから「本心の命ずる如くに生きよ。禄のために頭を下げる必要なし」と教えられ、一切の外職に就かず、家産を継いで桜の研究で世の中のためにお役に立とうとした人物である。植物研究のため借金を重ね、家財をつぎ込んた牧野富太郎博士にも通じるところがありそうだ。

 実は小林秀雄は会食の場で、笹部さんから数多くのボヤキを聞かされたという。桜のために生涯を捧げながら誤解されることもあり、「労多く功少し」であったことを嘆いたものであったのだろう。「何言ってるんだい。一生好きなことを思いのままにやってきたんじゃないか。何を悔やむことがあるんだ!」と小林秀雄は一喝した。

 その後、小林秀雄は『桜男行状』 (笹部新太郎著、1958年)を桜の聖書と激賞し、宇野千代さんをはじめ、多くの人々がこれに共鳴した。



 「しき島の大和心を人とはば、朝日ににほふ山桜花」

 もともとは「ソメイヨシノも良し」としていた小林秀雄が、本居宣長が愛した山桜に大和心の本質を見出すきっかけとなったのは笹部さんとの出会いゆえではないかと想像する。笹部さんは「花に先立ち萌え出づる嫩葉(わかば)の美しさと花の調和にこそ、真の桜の優美さがある」と山桜を表現している。



桜の写真見せて!


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