「昔もコロナ騒動に似たようなことはありましたか?」と聞かれて、その場では「経験したことはない」と答えた。個人の人生ではせいぜい百年弱の期間であるから、経験できることには限界があるが、歴史を勉強すると類似するようなことは過去にもあったと言えるかもしれない。
高知県でかつてコレラが流行った時、潮江天満宮に伝えられていたとされる菅原道真の遺品の袍を細かくして飲ませたところ、病気が治ったという霊験あらたかな話が語り継がれていることを思い出した。そのことがあって、現在は渡会春彦(白太夫)によって福岡から菅原高視(道真の長男)のもとへもたらされた遺品は残っていないのだという。
花崗岩から出る放射線が良いとか、オレンジが新型コロナウイルスに効くらしいといったデマが横行し、それらに振り回される現代人も、迷信を信じた昔の人々を笑うことはできない。
空前絶後のコロナ騒動に直面した我々の状況を省みて、『ハリー・ポッター』の世界を連想した。ヴォルデモートの恐怖の支配に飲み込まれようとする中で、人々はどう立ち振る舞うのか。ハリーが採った選択は「死なんとする者は生きる」というキリストの精神を実践しようとする道であった。かつて、当ブログで「J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズは最高のキリスト教文学である」と評した通りである。
また、今の時を何に喩えようか? イスラエルの民が出エジプトする際に、天から下された十災禍を過越す期間のようでもある。奴隷として400年間イスラエル人を苦役させたエジプト王国。パロ王は解放の約束を10回も裏切ったため、ついに災禍が降りかかることになった。
しかし、天の父母なる神様は裁きの神ではない。悔い改めたニネベの町に対しては滅ぼすことをしなかった。予防や感染拡大防止対策なども緊急を要することであるが、今一度、私たち自身がどのような立ち位置にあるのか考えてみる必要があるのかもしれない。心の方向性を正して、災禍が過ぎ去るのを待つ、「過越し」の時を迎えているように感じる。新型コレラウイルスの登場によって、世界が真っ暗になり恐怖に包まれたかに見えるのは、根拠のない妄想にあおられている側面も大きい。“今ここ”に意識を戻して、身近なところに目を向けると、自然は今までと変わらず美しかった。

