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副題として――チベットの生まれ変わりの謎を解く――とありますが、読後、もっとも心に残ったのは、「生まれ変わりの謎」よりも以下のような文章でした。


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難民といえば暗い表情をしていると思いがちであるが、1960年代から1980年代のチベット難民社会を目撃した外国人たちは、悲惨な状況下にあるにもかかわらず、不思議に明るいチベット難民たちの姿を伝えている。

・・・収容所のチベット高僧たちは、収容所を訪れる欧米人たちが、物質的にはめぐまれていても心がうつろであるのを見てとって、「トラブルメーカーはいつでもどこにでもいる。本当に我々を苦しめるのは、我々自身の煩悩、すなわち怒り、執着、愚かさである。心の安定を得るためには、これらの煩悩を心から取り除かねばならない。そのテクニックを説く仏教は、チベット人ばかりか世界のすべての人々にとって有用である」と、地球的な使命感をもつようになった。



ダライ・ラマのスピーチより
…チベットの仏教は、小乗、大乗、そして密教、しかも密教の中でも四つのタントラがすべてそろった完全な姿の仏教といえるでしょう。チベットの仏教には二つの要素があります。一つは、「心の中に菩提心(自分のためではなく他者のために仏の境地をめざす心)をもって一切の命あるものを救うために修行しようという考え方(広大行)と、もう一つは、空の思想によってものの真理に触れていこうという考え方(甚深見)です。この二つを兼備した修行を我々は続けています。

世界に多くの法があるなかで、最も完成されたものがチベットの仏教であると考えています。私たちは自由を失い、さらに自分の国をも失って、他国に亡命しましたが、このような生活を続けている最も大きな理由は、大切な仏法を守るという責任を感じているからです。単なる勉強であれば学校でもできますが、仏教の勉強は特殊な環境(僧院社会)においてしかできません・・・


・・・密教の修業とは、日々、瞑想と分析的思考を積み重ねることによって、少しずつ心の統御を実現していくことである。そこには継続と努力という言葉はあっても、奇跡の要素はない。・・・


・・・・日本の大学では「特定の学問ジャンルを会得するために必要な情報」を「知」とみなすため、バイキング料理のように「知」を並列的に提供することができる。一方、チベット仏教では、「心のなかからエゴを消した究極の人格者の意識」を「知」とみなす。この知を実現するためには、まずエゴを消すための理論である顕教を学び、次にその真理を密教の修行によって意識に実現するという段階を踏まなければならない。

善行もその器でなければ害に
・・・とてもよいことをしたので皆に嫉まれ、それが悪い形で出ることもある。しかし、徳を積み、あの人がそうするなら納得できるという者になれば、嫉みを受けることもない。お寺を建てるという善行をしたのに、ガンになった平岡は深く感じ入り、いっそう言動から私心をとりのぞくようになった。・・・



生き方の手本を示すのが僧侶
・・・「人がよいことをしたらそれを嫉むのではなく、喜びなさい。そうすれば、その人の善をまるごとあなたのものにすることができる。悪いことがあっても、なぜ自分だけがこのような目に遭うのかなどと恨まず、かえって自分が犯した過ちの清算をしていると思いなさい。そうすると苦しみも喜びにかわっていく。自分のことばかり思っていると、問題がどんどん起きてくるが、人の為を思うほど、心は平安になっていく」

「募金をするときに慢心が起きても、その行為が善であることにかわりはない。これからは毎日募金をしなさい。そうすればその行為は日常になり、慢心も起きなくなる」

「仕事があるから修行ができないということはない。朝には、『これから一日、人のために働きます』といって仕事に就き、夜寝る前にはその日、自分の行った行為を思い出して一つ一つ反省しなさい。それを毎日欠かさず続けるだけで、心は徐々に調っていく。

あなたたちは『自分は仏様のようになれるはずはない』と思っているが、そんなことはない。私もかつては怒りっぽい性格だったが、毎日瞑想を続けることで、ずいぶんと穏やかな心になった。私にだってできたのだから、皆もできるはずだ」・・・・・