「自分の無知を知っている」

ソクラテスの生涯(前470~前399)
ソクラテスは自然探求が中心の哲学を、人間の探求に方向転換させた偉大な哲学者である。
父は彫刻師、母は助産婦だった。妻の名はクサンチペ、子どもは三人いた。
彼には一冊の著書もないが、弟子のプラトンらの作品によって、古代ギリシア第一の哲学者ソクラテスの生涯の姿はかなり正確に再現できる。

若い頃、彼は自然研究に熱中したが、後半生では、人間の行為・道徳などもっぱら人間の問題に関心を集中させ、街頭や体育場などで出会う誰彼となく問答をかわして日を過ごした。

ソクラテスはスパルタとのペロポネソス戦争(前431~前404)の時、①37歳、②45歳、③47歳と三度従軍し、その都度勇敢な戦士として名をはせていた。また65歳のとき、国民議会の一員となっており、アテネの有名人であった。

「ソクラテス以上に賢い人はいない」というアポロン神殿の神託を受けて以後、ソクラテスはアテネの町で人々と問答を始めた。この問答を、ソクラテスは「母の産婆術と同じだ」と言っていた。周囲に若者たちが興味津々集まってきた。ソクラテスの存在はアテネの支配者にとって不気味なものとなった。

ソクラテスは告訴され、500人の陪審員による裁判が始まり、死刑の判決を受けた。
友人、弟子たちは国外逃亡をすすめたが、ソクラテスは「悪法も法なり」と言って毒杯を仰ぎ、死についた。

この世で一番賢い人物
ソクラテスの友人の一人・カレイポンは、気の良い男だったがいささか早とちりするくせがあった。
カレイポンはソクラテスと何度も話したことがある。ソクラテスはいつも「私は何も知らない」と言っていた。実際にそう思っているようだが、カレイポンにはそうは思えなかった。
「これまで自分がつきあった者の中なかで、ソクラテスが一番賢いと思うが、本当にそうだろうか。これはアポロン神殿に行ってお伺いするしかない」
巫女の口から告げられた信託は「ソクラテスが最も賢い」だった。

「汝自信を知れ」
アポロン神殿は、アテネの西北100キロのパルナッソス山麓デルフォイにあり、ギリシア人が最も崇拝するアポロンの神を祀ったこの神殿の正面には「汝自身を知れ」という額が掲げていた。この格言は一般には「身の程を知れ。節約せよ。行動を慎め」と解釈されていた。いわば処世訓である。

しかし、ソクラテスの解釈は違っていた。
ソクラテスは自分自身のこともわからないと思っていた。この世の中のこと、自分は何者かということも、すべてを疑っていた。自分自身は、何もわかっていない人間なのだと思い込んでいた。

ソクラテスは何事についても心から納得しないと気がすまない。表面だけではわかったとは思わない。何度も「それは何故か?」を繰り返す人だった。一つの答えにたどりついても、さらに「本当にそうなのか?」と考えることを5回も繰り返す人だった。

汝自身を知れ――ソクラテスは、この格言をもって自らの哲学活動の礎としたのである。

「私は馬の尻にとまった虻」
ソクラテスは本気になって悩んだ。
「私は決して賢くない。それなのに、神は何故、私を賢いと言われたのか?神は嘘を言われるはずはない。何故なのか?」

ソクラテスは自分が疑問に思っていることを、政治家・藝術家・職人・学者たち一人ひとりをつかまえ、尋ね始めた。答えに窮し腹をたて、ソクラテスに暴力をふるう者もいた。ソクラテスは殴られ、髪を掴まれ蹴飛ばされることもあった。ソクラテスはいくらなぐられてもじっと我慢し、
「私はアテネという大きな馬の尻にとまった虻である」と平然としていた。

日ごろ偉そうにしている男たちなのに、誰も納得のいく答えを出す者はいなかった。
「世間の人々は自分の無知に気づいていない。知らないことでも知っていると思っている。
問い詰められると、ようやく“知らなかった”と白状する。私は初めから自分の無知を知っている。だから、神は私を賢いと言われたのだ」
ようやく、ソクラテスは神託の意味が理解できた。

「私の議論は母の産婆術と同じだ」
紀元前五世紀、アテネは人口50万の大都市となった。各地から、商人・芸術家・ソフィスト(はじめは「賢い人」の意味だったが、紀元前五世紀後半、町から町へと巡回しながら人々に知識を授けて謝礼金を取る一群の人をさすようになった)たちがどっと押しかけてきた。

アテネの多くの若者は政治家を目指し、ソフィストたちに弁論術を学んでいた。こうした時、アテネの街角、市場、若者の集まる体育館など、いたる所でソクラテスとソフィストたちとの議論がはじまった。

初めは日常のありふれた事から問答を開始した。
ソクラテスが質問する。
「君がいちばん大切だと思うものは、何か?」
「それは、地位や名誉や財産だ」
「地位や名誉や財産は、それは一時的なものにすぎないのではないか?」
「うーん。それは、そうだが」
「人間の心の奥底にある、霊魂の方が大切ではないのか?」
ソクラテスの質問は鋭かった。
相手が答えに窮すると、若者たちは拍手喝采した。

ソクラテスは、独特のスタイルの対話法で人々に自らの無知を自覚させつつ、真の知識に共同で到達するように努めた。問題にぶちあたった時、その答えを人から教えてもらうのではなく、自分で発見することが大切だと考えていた。

「私の母は助産婦だ。母に習って、私は人の精神のお産を手助けしているのだ」
「産婆術」と言われるソクラテスの議論は、相手の心の中にある能力を“取り上げる”仕事だった。

なぜ死刑になったのか?
紀元前399年、70歳のソクラテスが、不敬虔の罪で告訴された。
罪状は、①アテネの神を敬わない、②青年たちを惑わす、の2点だった。
第一回の採決は、280対220でソクラテスは「有罪」とされ、罰金刑を言い渡された。

納得できないソクラテスは断固として主張した。「私はアテネの神を敬っている。さらにデーモンの神も信じている。それがなぜ悪いのだ。この場に出廷することも、デーモンの神は反対していない。それをなぜ、神を敬っていないというのか」

ソクラテスには、何か事を為そうとしたとき、よくこの〈デーモンの神〉の声が聞こえてくる。「なんとなく胸騒ぎがする。ある予感が働く」と言っていた。誰の声でもない。ソクラテスだけに聞こえてくる神の声だったのである。

「青年たちを惑わしたと言うが、私は人間には地位や名誉、財産よりもっと大切なものがある。それは心、魂ではないかと言っただけだ。金銭をいくら積んでも、そこから優れた精神が生まれることはない。私はそう言っただけだ。それがなぜ、罪になるのか!」
ソクラテスのこうした発言は、陪審員に挑発的と受け取られた。第二回の採決では、360対140で「ソクラテスは死刑」という、さらに厳しい判決となった。

「悪法もまた法なり」
ソクラテスの友人たちは役人を買収し、牢獄のソクラテスに国外逃亡をすすめた。
「悪法には従うことはないと思いますが」友人クリトンの言葉に、ソクラテスは、
「悪法も法である。私は法には従う。不正に対して不正で対抗し、逃亡という不正な手段をとると、これまでの自分の生き方を否定することになる」

面会に来た妻のクサンチペが「あなたは、不正に殺されるのだ」と言ったところ、ソクラテスは直ちに「それならお前は、私が正当に殺されるのを願うのか?」と言ったそうだ。

毒杯を運ぶ獄吏の手は震えていた。
「ほかの人はみな暴れまわったり、罵ったりしますが、あなたは気品高く、温和で、堂々としておられます。これは私の役目ですからお許しください」
獄吏はこう言って、わっと泣き出し、部屋から走り去った。

かくて紀元前399年、ソクラテスは毒杯を仰いで静かに死の床に横たわった。70歳だった。