「酒呑童子~越後から大江山へ~」 国上寺住職 山田現阿・著 



        私のみた酒呑童子像

国上寺と酒呑童子
酒呑童子の時代よりもさらに古い、悠久の時の流れに幾多の歴史を刻んできた、ここ国上寺に
私は三歳のときから育ち、今日まで過ごしてきました。

いま酒呑童子が大江山で亡くなってすでに千年の歳月が経ちました。
これを機会に、国上寺に伝わる「酒呑童子絵巻」を公表し、やはり古くから受け継がれてきた
「絵解き」にもとづいた物語を、広く皆さんに知っていただければと思い立ち、この本を世に
出すことにいたしました。

酒呑童子ゆかりのこの地に長らく住んで、自らも酒呑童子のことを調べたり、考えたりしてきた
のですが、私はこれまでの「お伽草子」をはじめとする物語には、かなりの疑問を抱くように
なりました。霊験によって信仰を得た僧は、「順当なコースを踏まず」と昔から言われ、山々で
修行し、その力が人々に知られるようになりました。

酒呑童子もこのような人であったろうと思い至ったからです。
そこでこの折に、童子に関する私の考えを述べ、なんとか鬼の謎に挑戦してみたいと思います。

また丹波国(現京都府)の大江山は、鬼にゆかりの地であり、三つの鬼伝説が残されています。
その一つは古墳時代で、第十代崇神天皇の御代、日子坐(ひこいます)王が鬼を退治した話。
二つ目は飛鳥時代の用明天皇のときで、三鬼を頭とする悪鬼が、ここにはびこった話。
さらには平安時代中期に、当山に伝わるのと同じ酒呑童子の話の三つであります。

大江山と国上山は、ともに鬼の話が残されているのですが、二つの山の関係を調べますと
面白い事実が判明します。というのは、どちらからも日本海が望め、近くに良港があることです。
国上山の麓は昔、日本海から入江が深く入りこんでいて、船着き場は「夕暮れの岡」でした。
この「夕暮れの岡」は、歴史がずっと下がった江戸時代、国上山の中興といわれ、辛苦のすえ、
本堂を再建された万元(ばんげん)上人や良寛さまによって歌に詠まれております。

日本海の高度な文化は、この「夕暮れの岡」から広まっていったのです。
それは当時、わが国より文化的先進・新羅から、この潟湖の良港「夕暮れの岡」を通して、より
高い文化がどんどん入ってきたからです。
ちなみに「夕暮れの岡」近くの竹ヶ花(分水町大字中島小字竹ヶ花)の丘の頂上に新羅王の墓
あり、そのことでも新羅との関係の深さがわかります。

大江山も同様、そこから望める丹後の港から朝鮮・新羅との交流が盛んであったのです。
新羅文化の中で、瓦造りの技術も渡ってきて、その地の「鬼神像の鬼面瓦(鬼首おにこうべ瓦)が
伝えられ、国上山で花開きました。それがあとになって酒呑童子は鬼であるという伝説が生まれる
一因になっていきました。

国上山での童子の実像
「越後平野に三山あり」と昔から言われ、広い平野に忽然とそびえる弥彦山を中心に、角田山と
国上山を合わせて三山と読んでいます。その中でも国上山は、非常に古くから「白峰の藤」と歌
に詠み込まれ、越後有数の歌枕になっています。また古志郡(ごおり)の「こしの山」とも呼びならわして
いました。この山は、ご存じのように高からず、低からず、限りなく豊かな自然に恵まれた山です。


この山腹にある国上寺は、これもきわめて古く、山号を雲高山・雲上山ともいい、越後鎮護仏法、
最初の霊場です。天平勝宝年中(749-757年)、孝謙天皇より「百王鎮護道場万代崇敬の宮也」
と称せられ、成一位を賜り、国中上一等の勅宣も頂戴いたしました。

それだけに国上寺に伝わる口碑や物語は数多くありますが、その中の一つが、酒呑童子は当山で
修行し、少年時代を過ごしたという話であります。

私は国上寺時代の童子を、次のように考えております。
栄枯盛衰は世のならいと申しますが、当時の国上寺はかなり衰退していて、悪童たちが多く
集まっていました。そこで酒呑童子は、これら悪童たちから逃れて、一人洞窟を住みかとし、時折
そこを出て、山々谷々をめぐり歩きました。

童子は世俗の栄華をきらい仏道を求めるようになりました。口には仏を誦(ず)し、修羅のちまた
を避けて、お寺の下の洞窟に住み、ひとり瞑想する修行をしたり、危険を顧みず山野を駆け廻ったり
していました。ところが世の人々は、「あれは鬼だ。あの穴は鬼穴だ」といいふらし、それが
広まっていって、恐ろしい鬼の話に変わっていったものと考えています。

国上寺はその昔、修験道場でした。ですから国上山には行者山や戒壇所があり、修験行場が
整っていました。大勢の修験者が、ここにとどまり、山岳修行にいそしんでおりました。
そして国上山から弥彦山を経て、角田山をめぐり歩く回峰行も行われていたのです。

さて、国上寺を飛び出して洞窟に移り住んだ酒呑童子は、藤などの皮や木の葉をつづった衣を着、
松葉や木の実を主食とし、先ほど触れましたように、国上、弥彦、角田山を跋渉して修行に励んで
いました。丈余の断崖に洞窟をうがち、その中に正座し、座仏して夜をあかし、朝になると冷たい
滝に打たれて身を清めるのが日課でした。このように酒呑童子は修験道を修める、ひとりの修験者
をめざして成長していったのです。

またある時、角田山の麓の間瀬というところで、銅の鉱脈を発見して掘り始めました。
間瀬は童子が幼いころ過ごした岩室村和納に近かったので、その昔一緒に遊んだ幼馴染を呼び集め
本格的な採鉱にとりかかりました。このような鉱産の知識や技術を、どこで習得したのかは
はっきりとはしませんが、相当長い修行の間に、その道の先達から学んだものでしょう。

しかし採掘が大がかりとなってくるにつれ、国上寺の貫主にそのことが知られてしまい、銅を掘る
のを中止するよう言い渡されました。そこで童子は故郷をあとにして、柏崎の鯨波海岸や、その
近くの米山の洞窟に移ったり、銅を求めてあちこち、すみかを変えました。

同時に自然法爾の道理にかなった十種の修行をつむことによって、自在無碍、自由自在に天地を
丸めて懐に入れることもできる霊力を身につけるようになりました。