高野山の修行僧で、全国巡礼の旅をしておられるというほら貝の名手に
たまたま国上山で出逢い、ご自分のバイブルだとお勧めいただいた本です。

      $自分に還る。

大正生まれの著者の、瑞々しい感性、赤裸々な告白に胸を打たれました。

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・・・その話を聞くと大変だ。旅費の事も心配だ。五、六十円もいるという。
それに、どこそこの山では若い女が殺されたり、姦されたり、それも今の季節が一番悪いという。

私は心細くなってきた。でも構わない。生といい死という、そこに何ほどの事やある。

私は信念を得たい、驚異を得たい、歓喜を得たい、さもなくば狂奔を得たい。
とにかく苦しみ悶え泣きわめいていくうちには例え方なき尊厳な高邁な信仰に到達するであろう。

私の行くべき途は、最早それ一つにあるのだ。私は、世に尊い美わしい気高い女であらねばならない。
そうなることができなければ、むしろ死んでも構わないのだ。

迫害よ!来たれ、妾(わらわ)豈(あに)おどろかんや。

妾はあくまで八十八か所の難を蹟破せねばならぬ。屹(きつ)と決心して寺に帰ってくると
道で二人連れの、もう一人の方に出会った。石田万太郎という人だそうな。この人も私を
説きなだめ熊本に帰れとすすめてくれる。

好意多謝!

ただ妾が心誰か知らん。月よ日よ、照れ!照れ!そして妾と共にあれ。妾が心、真に清し。

・・・・・・・・・

人間は虚栄を張ることが一番苦しい、人に気兼ねをすることが一番煩わしい。

有りて有らず見えて見えず聞こえて聞こえざる天真一潔の独りの心こそ何と楽い心だろう。

そこにこそ最も尊い最も豊かな愛がわく。天地悠々の裡人生あり。離れて離れず一切を熱愛す。

私には今いささかの不安も憂愁もない。日暮れなば睡り、夜明けなば歩く。暴慢を捨てることと
軽佻な誇をなくすることには、かなり骨が折れた。

ああ、私は人の前で得意そうに字をかいた。何という心の醜態だ、何という情けない有様だ。
書くべくば書きもしよう、読むべくば読みもしよう。

ただ私のありのままなれ。

であるがここに一つ。世の中の人たちは百が百といっていいくらい、私という者を理解しちゃ
くれないのだ。それはいい怪しんだら怪しんでもかまわない。しかしそれのために面倒なことを
引き起こすのがうるさい。若いということが何だろう。女ということが何だろう。

一人旅ということが何だろう、この悠々の天地を楽しみ、高邁無迷な信仰に憧がるる私の心

―――それを人はどうしたって信じちゃくれない。


心放たれてあれ、自由なれ。―――こういうと、すぐに、危険思想視する世の中だから始末におえない。  

ああ、弘法大師、日蓮上人、思い来ればかかる人はすべて偉大だ。

                     (本書より抜粋)

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大正七年、全国をゆるがすに至る米騒動のはじまりを、二か月足らずの後に控えた六月四日、
満二十四歳で、約半年の四国遍路の旅に出た高群逸枝の手記は、新聞に連載されて大評判となったそうです。

国上山で出会ったお坊さまが、巡礼をはじめたきっかけとなったというこの「娘巡礼記」。

実際の著者は、大胆な文章からは想像もつかないほどに、おとなしやかで、人見知りをし、
口もろくにきけない風だったということです。

それでいて強烈な意志力と情熱と、カリスマ性をさえ、その内側に秘めていたのです。
個性を押しつめられることへの反発や、自由への渇望の激しさには心から共感できます。

今を生きる私たちと何ら異なることのない著者の魂の叫びは、私の胸の奥の奥に届き、
疑問をつきつけ、風穴をあけてくれたような気がしました。




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