『海賊とよばれた男』という小説をご存知ですか?
内容は知らなくても、ミリオンセラーとなった話題の本ですから、
きっと一度は耳にされたことがあると思います。
『海賊とよばれた男』は出光興産の創業者、出光佐三氏を
モデルにした小説ですが、ほとんどがノンフィクション。
戦後の弱い立場にあった日本の、しかも小さな石油会社が、
世界の強国を相手に、勝利を勝ち取った物語と言えるのではないでしょうか。
最も有名な物語に入る前に、出光佐三の人となりを何よりも示す
別の逸話をご紹介します。
海外を中心に事業を展開してきた出光興産は、1945年、
敗戦によりほぼすべての事業と在外資産を失いました。
出光佐三は、終戦の2日後、従業員に対し、
「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」
と訓示しました。
そして当時、多くの企業が人員を整理する中、
出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言し実行しました。
1千人の1人たりとも首を切ることなく、
戦後の混乱期を切り抜けたのです。
会社資産がゼロになってなお、従業員の雇用を第一に
考えるということは、昔も今も”とてつもない”ことと言って良いでしょう。
さて、今では日本も先進国の仲間に入り、一つの独立した国として
確固たる地位を築いていますが、1939年から1945年までつづいた
第二次世界大戦で、大敗を期した日本は、大戦後、アメリカの統治下にありました。
同じように、かつてイギリスに支配されていたイランは、
第二次世界大戦後独立をはたし、イラン国内の石油資源の国有化を宣言しました。
しかし、これを快く思わないのはイギリスです。
イギリスは、海軍をホムルズ海峡に派遣して封鎖。
イランに石油を買付に来たタンカーは撃沈も辞さないという表明を世界に発信したのです。
そのようなイランの状況と、アメリカの間接的統治で石油を自由に輸入できない
日本の未来を憂慮した出光興産の出光佐三社長は、イランから石油を輸入することを
決意しました。
秘密裏にイランと交渉をしますが、はじめは、小さな日本国の中小企業の
一つにすぎなかった出光興産の言うことをイランは鵜呑みにはできなかったようです。
しかし、幾度も話し会いを重ね、出光興産とイランの本気の闘いが始まります。
世界を味方につけるために、国内外の法を順守するための議論、
日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、
法の抜け道を利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、
航海上の危険個所調査など準備を入念に整え、
日章丸は1953年3月23日9時神戸港を極秘裏に出港しました。
航路も行き先をサウジアラビアとして偽装。
本当の行き先を知っていたのも、船長と機関長の二人だけでした。
戦時中に培った見事な操縦でイギリス海軍の包囲網を掻い潜りイラン・アバダンに入港。
そして、イギリス軍の包囲網と浅瀬や機雷などを突破し、
ガソリンや軽油25、000キロを満載して帰国したのです。
これは世界中を驚かせました。
日本が中東に目を向け、メジャー支配に挑戦し産油国と直接取引をした先駆です。
このとき、指揮を取った出光佐三は、記者団に対して、
「天地神明に誓って、やましいことはしていません」
と力強く語りました。
しかし、イギリスは石油は自分たちのものであると主張し、
仮押さえ処分の裁判(東京地裁)となります。
しかし国際世論が出光興産とイランの味方になってくれたこと、
アメリカが黙認したことにより、イギリスは提訴を取り下げました。
これが、名実ともに日本が独立したことを、
国際的にアピールした快挙となったのです。
この「日章丸事件」はイラン人が今でも親日的である理由の一つであり、
両国はとても友好的関係を今でも強く結んでいます。
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目が覚めたら生きていた。
朝起きたらもうご飯ができていた。
窓を開けたら美味しい空気があった。
毎日ご飯が食べられる。
買い物に行ったら欲しいものが買えた。
美味しいものを食べて美味しいと感じる。
結婚して子供が生まれた。
子どもがすくすく育っている。……
「こんなこと、当たり前だと思ったら大間違いです。世の中に当たり前のことは、
たったひとつしかないんです。
それは、産まれてきたすべての命には必ず終わりがあるということ。
それだけが当たり前のことで、それ以外のことはすべて奇跡なんですよ」
助産師の内田美智子さんがこう話す。
内田さんは『いのちをいただく』の著者。
毎年牛を殺して肉にする仕事をしている坂本さんと、
畜産農家で「みいちゃん」という牛と一緒に育った女の子の話を綴った
感動的な絵本だ。
内田さんが助産師として命を取り上げるとき、
親が15歳の少女もいた。
分娩室で彼女は「痛い、痛い!」と泣き叫びながら、
やっとのことで3000グラムを超える大きな赤ちゃんを産んだ。
妊娠に至った経緯には、言うに言えない事情があった。
しかし、産まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら、少女は
「ママよ、私がママよ」と何度も語りかけていたそうだ。
しばらくして、ずっと寄り添っていた、30代後半だろうか、40台前半だろうか、
若くして祖母になったばかりの母親に向かって言った。
「ママ、ありがとう」
同じ頃、国会議員の野田聖子さんが不妊治療の末、50歳にして男の子を出産した。
内田さんは次のように言います。
「50歳だろうが、15歳だろうが、生まれてきた子は乳飲み子。
手がかかるのは同じ。
周囲のサポートは同じように必要です。
中学生だろうが、国会議員だろうが、母親は一人しかいないんです。
育てられることに感謝して欲しい」
30年以上もお産の現場にいる。
そこは「おめでた」ばかりではなかった。
妊娠が分かってから女性は約10ヶ月の月日を経ながら、
少しずつ「母親になる」という決意をしていく。
それは自分の命を賭けて産むという決意だ。
わずか50年前、約2000人の母親がお産のときに命を落としていた。
内田さんが助産師になった30年前は300人、
近年でも数十人の母親が自らの命と引き換えに子どもを産んだ。
死産もある。
ある妊婦は10ヶ月目に入って胎動がしなくなったことに気が付いた。
診察の結果、胎児は亡くなっていた。
でも、産まなければならない。
普通、お産のとき、
「頑張って。もうすぐ元気な赤ちゃんに会えるからね」
と、妊婦を励ますが、死産のときには掛ける言葉がないという。
泣かない子の代わりに、母親の泣き声が分娩室に響き渡る。
その母親は内田さんに「一晩だけこの子を抱いて寝たい」と言った。
真夜中、看護師が病室を見回ると、母親はベッドに座って子どもをだいていた。
「大丈夫ですか?」と声を掛けた看護師に、母親は、
「今、お乳をあげていたんですよ」と言った。
見ると、母親は乳首から滲み出てくる乳を指に付けて、子どもの口元に移していた。
「このおっぱいをどんなにか、この子に飲ませたかったことか。
泣かない子でも、その子の母親でありたいと思うのが母親なんです。
何千年の時を経ても母親は母親であり続けるんです。」
と内田さん。
父親・母親世代に内田さんは、
「子育ては時間が取られるなんて思わないで。
育てられるだけでも幸せなことなのよ」
と語り、学校で子供たちに向かって話すときには、
「お母さんは命賭けであなたたちを産んだの。
だからいじめないで。死なないで」
と訴える。
「命が大切なんじゃない。あなたが大切なの」と。
猿渡瞳ちゃんはわずか13歳(中学2年生)で
がんによって亡くなりました。
彼女は死の数ヶ月前に作文を書き、
「青少年健全育成弁論大会」の壇上で、発表しました。
タイトルは「命を見つめて」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「命を見つめて」(猿渡瞳)
みなさん、
みなさんは本当の幸せって
何だと思いますか。
実は、幸せが
私たちの一番身近にあることを
病気になったおかげで知ることができました。
それは地位でも、名誉でも、
お金でもなく「今、生きている」
ということなんです。
私は小学生の時に
骨肉腫という骨のガンが発見され
約1年半に及ぶ闘病生活を送りました。
この時医者に、
病気に負ければ命がないと言われ、
右足も
太ももから切断しなければならないと
厳しい宣告を受けました。
初めは、とれもショックでしたが、
必ず勝ってみせると決意し
希望だけを胸に
真っ向から病気と闘ってきました。
その結果、病気に打ち勝ち
右足も手術はしましたが
残すことができたのです。
しかし、この闘病生活の間に
一緒に病気と闘ってきた15人の大切な仲間が
次から次に亡くなっていきました。
小さな赤ちゃんから、
おじいちゃんまで
年齢も病気もさまざまです。
厳しい治療とあらゆる検査の連続で
心も体もボロボロになりながら、
私たちは
生き続けるために
必死で闘ってきました。
しかし、
あまりにも現実は厳しく
みんな一瞬にして亡くなっていかれ
生き続けることがこれほど困難で、
これほど偉大なこのかということを
思い知らせれました。
みんないつの日か、
元気になっている自分を思い描きながら
どんなに苦しくても
目標に向かって
明るく元気にがんばっていました。
それなのに
生き続けることができなくて、
どれほそ悔しかったことでしょう。
私がはっきり感じたのは、
病気と闘っている人たちが
誰よりも一番輝いていた
ということです。
そして健康な体で
学校に通ったり、
家族や友達と
あたり前のように毎日を過ごせるということが、
どれほど幸せなことか
ということです。
たとえ、
どんなに困難な壁にぶつかって
悩んだり、
苦しんだりしたとしても
命さえあれば
必ず前に進んで行けるんです。
生きたくても生きられなかったたくさんの仲間が
命をかけて教えてくれた
大切なメッセージを、
世界中の人々に伝えていくことが
私の使命だと思っています。
今の世の中、
人と人が殺し合う戦争や、
平気で人の命を奪う事件、
そしていじめを苦にした自殺など、
悲しいニュースを見る度に
怒りの気持ちでいっぱいになります。
一体どれだけの人が
それらのニュースに対して
真剣に向き合っているのでしょうか。
(中略)
命を軽く考えている人たちに、
病気と闘っている人たちの姿を
見てもらいたいです。
そして、
どれだけ命が尊いかということを
知ってもらいたいです。
みなさん、
私たち人間は
いつどうなるかなんて
誰にも分からないんです。
だからこそ、
1日1日がとても大切なんです。
病気になったおかげで
生きていく上で
一番大切なことを
知ることができました。
今では心から
病気に感謝しています。
私は
自分の使命を果たすため
亡くなったみんなの分まで
精いっぱい生きていきます。
みなさんも、
今生きていることに感謝して
悔いのない人生を送って下さい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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参考・引用;
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「お母さんは命がけであなたを産みました」(内田美智子著・青春出版社)
<P62~73>
イスラムの人々は概して親日感情が強いのですが、
このことを知っている日本人は決して多くありません。
イスラム世界の親日感情の始まりは、自分たちを苦しめていた
ロシア帝国に日本が勝利したことです。
1904年(明治37年)日露戦争勃発。
この戦争をきっかけに、日本は世界の表舞台に登場するようになります。
大方の予想を破り、極東の小国日本がヨーロッパの大国ロシアに勝利し、
世界を驚かせたのです。
当時の代表的なイギリスの新聞はこう伝えています。
「日本人は西洋の学問の成果をすべて集めた。
そして西洋の成果を応用し、組み合わせて使いこなしている。
この民族は我々が育んだ複雑な文明をわずか一世代あまりのうちに習得したのだ。
ロシア軍はロシア人最高の武勇を発揮している。
しかしそれを攻撃する日本人はもっと偉大と言わざるを得ない。
粘り強さ、機転、素晴らしい勇気、厳しい状況への知的な対応。
今、世界中が興奮している。
日本人は誇り高い西洋人と並び立つ列強であることを世界に示したのだ。」
日本の指令官、陸軍大将乃木希典は大国ロシアを破った名将として
世界に名を知られるようになりました。
日本海海戦では海軍大将東郷平八郎が率いる日本海軍が
ロシアのバルチック艦隊を打ち破ったことも世界に衝撃を持って伝えられました。
この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても
自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。
トルコでは、「トーゴー」「ノギ」「ジャポンヤ」
という名前を子供につける人まで現れました。
ムスタファー・カーミルはエジプトの民族主義者
で、カイロの法律学校を卒業後、反英独立運動に従事しました。
彼は、ロシアと戦うまでになった日本の発展を賞賛し、
「昇る太陽」という著作を出した。
「日本の歴史こそ、東洋の諸国に最も有益な教訓を与えてくれるものと信ずる」
別の書簡では、
「日本人こそはヨーロッパに身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人
ではありませんか。どうして日本人を愛さずにおれましょう。」
と語っている。
イランの詩人「ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイー」は
日露戦争の直後につくった「ミカド・ナーメ」(天皇の書)のなかで、
次のように日本を賛美している。
「東方からまた何という太陽が昇っているのだろう。
眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。
文明の夜明けが日本から拡がったとき、
この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。」
ロンドンでの亡命を終えた若き孫文が、帰国の途中の
エジプトで、現地のエジブト人から「バルチック艦隊を全滅させた
日本の勝利を知った。共に喜んでほしい」と聞かされたという
エピソードを1924年に来日した講演で語っている。
さらにこのとき、5,6人のエジプト人に取り囲まれ、
「中国は日本の近くなのだから、どうか日本人に伝えてくれ。
我々は、日本がロシアに勝ったことを我がことのように喜んでいると。
我々も日本を見習って、植民地主義と戦っていきたいのだ」
と孫文に頼んだという。
当時イギリスに留学していた、後のインド初代首相ネルーは
こう回想しています。
「日本の勝利は私を熱狂させた。私は新しいニュースをみるため、
毎日、新聞を待ち焦がれた。
どんなに感激したことか。
どんなにたくさんのアジアの少年少女、そして大人が同じ感激を体験したことか」
そして時代は変わり第2次世界大戦後にも、
日本は欧米を敵に回し、イスラムの人を助ける”偉業”を巻き起こしました。
敗戦後まもない時期にイランを舞台に世界に日本人の気概を
見せた出光興産による石油買い付け、いわゆる日章丸事件です。
イギリスによる自国の石油資源の支配に苦しんでいた
イランが1951年石油の国有化を決めました。
それに反発したイギリスの石油会社は
石油メジャーと協力をして、イラン石油を国際市場から排除します。
石油メジャーたちが恐れたのは、石油国有化が中東全体に広がる事でした。
メジャーたちは、イラン以外で生産を増やし、大儲けをしていました。
一方、中東の国々は自国の資源を自国のために使うことができず、
貧しく虐げられていました。
当時の日本は、アメリカの占領下で、出光興産は、
石油の買い付けをすべてアメリカで行っていました。
しかし、出光興産は「消費者に安いガソリンを提供する」を企業理念に掲げて、
長年、メジャーと闘争を続けてきており、アメリカ以外からの購入を模索していました。
しかし、イギリスはイランの石油の所有権は
イギリスにあると主張し、他国のイランからの買い付けを一切禁止していました。
実際に、イランの石油を買い付けたイタリア、スイス共同資本のタンカーは
アラビア海で英海軍に拿捕されるという事件が起こりました。
イギリスはこの買い付け行為に激怒し、
「イランの石油を買った者にはいかなる措置も辞さない」
と発表しました。
つまり撃沈も辞さないという意味です。
各国がイギリスの報復を恐れて手を出せない中、
出光興産は買い付けを決めました。
そして、タンカー日章丸はイギリス海軍の警戒網をかいくぐり、
イランのアバダン港に到着しました。
イランの人々は熱狂的に歓迎しました。
翌日の地元の新聞に日章丸の姿が大々的に掲載され、
イラン経済に希望を与えるものだと賞賛と歓迎の報道をなされました。
当然イギリスでは反発が起こり、帰りに日章丸を捕らえようと警戒網
を強化しました。
ところが日章丸はルートは迂回するなどして、
イギリス海軍による監視を欺き、日本に到着しました。
1953年(昭和28年)5月9日川崎港に入港した日章丸を待ち受けていたのは、
関係者や既に出光の行動を知った人々や新聞・マスコミが出光の快挙を記事にしようと
集まった多くの報道陣でした。
その後、イギリスはこの買い付けに対し、
「イランの石油は、アングロ・イラニアン(イギリスの石油会社)のものである」
として、東京地裁に提訴しました。
しかし、東京地裁はこれを却下しました。
判決では、「イランとアングロ・イラニアンの契約は、私的な契約であり、
イランの民法に従うべきである。
イランによる石油国有化は、正当である。」と断じました。
出光がメジャーに締め出されたイラン石油を購入したことは、
国際石油カルテルに牛耳られている世界の石油市場に一石を投じるものでした。
また、独立を回復した日本の姿を国際舞台に示したということで、この「日章丸事件」は、
まだ敗戦の虚脱状態から抜けきれないでいる日本国民に対し、
自信と勇気を与えるものでした。
主役である出光興産の社長、出光佐三は、
「海賊と呼ばれた男」(百田尚樹著)として小説化されベストセラーとなりました。
あるイランの政府高官は次のように言いました。
「イランでは3つの船が有名である。
それはノアの方舟、タイタニックそして日章丸です」
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イスラム世界の親日感情の始まりは、自分たちを苦しめていた
ロシア帝国に日本が勝利したことです。
1904年(明治37年)日露戦争勃発。
この戦争をきっかけに、日本は世界の表舞台に登場するようになります。
大方の予想を破り、極東の小国日本がヨーロッパの大国ロシアに勝利し、
世界を驚かせたのです。
当時の代表的なイギリスの新聞はこう伝えています。
「日本人は西洋の学問の成果をすべて集めた。
そして西洋の成果を応用し、組み合わせて使いこなしている。
この民族は我々が育んだ複雑な文明をわずか一世代あまりのうちに習得したのだ。
ロシア軍はロシア人最高の武勇を発揮している。
しかしそれを攻撃する日本人はもっと偉大と言わざるを得ない。
粘り強さ、機転、素晴らしい勇気、厳しい状況への知的な対応。
今、世界中が興奮している。
日本人は誇り高い西洋人と並び立つ列強であることを世界に示したのだ。」
日本の指令官、陸軍大将乃木希典は大国ロシアを破った名将として
世界に名を知られるようになりました。
日本海海戦では海軍大将東郷平八郎が率いる日本海軍が
ロシアのバルチック艦隊を打ち破ったことも世界に衝撃を持って伝えられました。
この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても
自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。
トルコでは、「トーゴー」「ノギ」「ジャポンヤ」
という名前を子供につける人まで現れました。
ムスタファー・カーミルはエジプトの民族主義者
で、カイロの法律学校を卒業後、反英独立運動に従事しました。
彼は、ロシアと戦うまでになった日本の発展を賞賛し、
「昇る太陽」という著作を出した。
「日本の歴史こそ、東洋の諸国に最も有益な教訓を与えてくれるものと信ずる」
別の書簡では、
「日本人こそはヨーロッパに身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人
ではありませんか。どうして日本人を愛さずにおれましょう。」
と語っている。
イランの詩人「ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイー」は
日露戦争の直後につくった「ミカド・ナーメ」(天皇の書)のなかで、
次のように日本を賛美している。
「東方からまた何という太陽が昇っているのだろう。
眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。
文明の夜明けが日本から拡がったとき、
この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。」
ロンドンでの亡命を終えた若き孫文が、帰国の途中の
エジプトで、現地のエジブト人から「バルチック艦隊を全滅させた
日本の勝利を知った。共に喜んでほしい」と聞かされたという
エピソードを1924年に来日した講演で語っている。
さらにこのとき、5,6人のエジプト人に取り囲まれ、
「中国は日本の近くなのだから、どうか日本人に伝えてくれ。
我々は、日本がロシアに勝ったことを我がことのように喜んでいると。
我々も日本を見習って、植民地主義と戦っていきたいのだ」
と孫文に頼んだという。
当時イギリスに留学していた、後のインド初代首相ネルーは
こう回想しています。
「日本の勝利は私を熱狂させた。私は新しいニュースをみるため、
毎日、新聞を待ち焦がれた。
どんなに感激したことか。
どんなにたくさんのアジアの少年少女、そして大人が同じ感激を体験したことか」
そして時代は変わり第2次世界大戦後にも、
日本は欧米を敵に回し、イスラムの人を助ける”偉業”を巻き起こしました。
敗戦後まもない時期にイランを舞台に世界に日本人の気概を
見せた出光興産による石油買い付け、いわゆる日章丸事件です。
イギリスによる自国の石油資源の支配に苦しんでいた
イランが1951年石油の国有化を決めました。
それに反発したイギリスの石油会社は
石油メジャーと協力をして、イラン石油を国際市場から排除します。
石油メジャーたちが恐れたのは、石油国有化が中東全体に広がる事でした。
メジャーたちは、イラン以外で生産を増やし、大儲けをしていました。
一方、中東の国々は自国の資源を自国のために使うことができず、
貧しく虐げられていました。
当時の日本は、アメリカの占領下で、出光興産は、
石油の買い付けをすべてアメリカで行っていました。
しかし、出光興産は「消費者に安いガソリンを提供する」を企業理念に掲げて、
長年、メジャーと闘争を続けてきており、アメリカ以外からの購入を模索していました。
しかし、イギリスはイランの石油の所有権は
イギリスにあると主張し、他国のイランからの買い付けを一切禁止していました。
実際に、イランの石油を買い付けたイタリア、スイス共同資本のタンカーは
アラビア海で英海軍に拿捕されるという事件が起こりました。
イギリスはこの買い付け行為に激怒し、
「イランの石油を買った者にはいかなる措置も辞さない」
と発表しました。
つまり撃沈も辞さないという意味です。
各国がイギリスの報復を恐れて手を出せない中、
出光興産は買い付けを決めました。
そして、タンカー日章丸はイギリス海軍の警戒網をかいくぐり、
イランのアバダン港に到着しました。
イランの人々は熱狂的に歓迎しました。
翌日の地元の新聞に日章丸の姿が大々的に掲載され、
イラン経済に希望を与えるものだと賞賛と歓迎の報道をなされました。
当然イギリスでは反発が起こり、帰りに日章丸を捕らえようと警戒網
を強化しました。
ところが日章丸はルートは迂回するなどして、
イギリス海軍による監視を欺き、日本に到着しました。
1953年(昭和28年)5月9日川崎港に入港した日章丸を待ち受けていたのは、
関係者や既に出光の行動を知った人々や新聞・マスコミが出光の快挙を記事にしようと
集まった多くの報道陣でした。
その後、イギリスはこの買い付けに対し、
「イランの石油は、アングロ・イラニアン(イギリスの石油会社)のものである」
として、東京地裁に提訴しました。
しかし、東京地裁はこれを却下しました。
判決では、「イランとアングロ・イラニアンの契約は、私的な契約であり、
イランの民法に従うべきである。
イランによる石油国有化は、正当である。」と断じました。
出光がメジャーに締め出されたイラン石油を購入したことは、
国際石油カルテルに牛耳られている世界の石油市場に一石を投じるものでした。
また、独立を回復した日本の姿を国際舞台に示したということで、この「日章丸事件」は、
まだ敗戦の虚脱状態から抜けきれないでいる日本国民に対し、
自信と勇気を与えるものでした。
主役である出光興産の社長、出光佐三は、
「海賊と呼ばれた男」(百田尚樹著)として小説化されベストセラーとなりました。
あるイランの政府高官は次のように言いました。
「イランでは3つの船が有名である。
それはノアの方舟、タイタニックそして日章丸です」
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引用;「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」(宮田律著・新潮新書)
https://www.youtube.com/watch?v=3oxKXygjSQw
テニスの錦織選手は、2015年3月、ついに世界ランク4位まで
順位を上げました。
男子テニス界は長らく、ジョコビッチ、フェデラー、ナダル、マレーが
「ビッグ4」と呼ばれその牙城を保ってきました。
少しずつそれが崩れつつあるとはいえ、世界4位といえば、
まさにそれを突き崩す順位。
まさに”快挙”という言葉が空々しく感じるほどの”快挙”。
それまでの日本人男子の最高位が松岡修造氏の46位だったことを考えると、
いかに突出した歴史的偉業かというのがわかります。
しかも、現在はまだ登り階段の途中であろうことが、
ますます私たちをワクワクさせてくれます。
彼の活躍として記憶に新しいのが、
2014年8月の全米オープンでの決勝進出。
このことに関して、スポーツジャーナリストの金子達仁氏が
次のような文章を書いています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本人選手がグランドスラムの決勝に進出するのと、
日本サッカーがW杯の決勝に進出するのとどちらが大変か――そう聞かれたら、
わたしは間髪入れずに「前者だ」と答える。
コンマ1秒の逡(しゅん)巡(じゅん)もコンマ1ミリのブレもなく、
確信をもってそう答える。
個は集団のために存在することの多い国で育った人間が、
強い個なしでは生きていけない環境で育ってきた人間と1対1で戦う。
いざ戦いが始まってしまえば、助けてくれる仲間もいない。
そんな状況で勝ち残れる日本人は、サッカーの世界におけるマラドーナ以上に
希少かつ貴重な存在である。
伊達公子だけが、頂点という領域に近づいた唯一の日本人だった。
だから、錦織圭の決勝進出は、この原稿の最初から最後まで「とてつもない」
という言葉で埋めつくしてもまるで足りないほどの、本当にとてつもない
快挙だった。
どれほどの賛辞を贈っても大げさではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(2014年9月11日付「スポーツニッポン」に掲載)
錦織選手は幼い頃からその才能が認められ、
若干13歳からアメリカのテニスエリートが集まる、
IMGニック・ボロテリー・テニスアカデミーに入学しました。
その後当時世界ランク1位だったロジャー・フェデラーに氏名され、
練習パートナーを務めたこともありました。
しかし、最近の錦織の活躍の影にはマイケル・チャンコーチの
存在があります。
2013年の12月から専属コーチに就いたマイケル・チャン。
同じアジア系として、同じ苦難を経験してきたこの男がいたからこそ、
錦織は強くなったのです。
1972年、チャンは台湾からの移民だった両親のもと、アメリカに生まれ、
1888年に16歳でプロ入りしました。
しかし、幼少期のコーチやスクール時代のチームメイトなど、
チャンの周囲の人間は、誰一人その才能を認めようとはしませんでした。
プロ入り後14年間、チャンのコーチを務めてきた兄のカールが振り返る。
「悲しいことだが、アメリカではアジア人に限らず、白人以外はみなある程度の差別を受けるんだ。たとえ才能があっても、それは免れない。弟のマイケルも、『絶対に成功しない』と言われ続けたよ。身長175㎝のアジア系移民の力を信じてくれる者は、一人もいなかった。」
そして、チャンが17歳で出場した、1989年の全仏オープン。
無名のアジア系選手のプレーに、観客は驚愕しました。
縦横無尽にコートを走り回り、どんなボールにも貪欲に喰らいつく。
劣勢に立たされても表情を崩さず、ポイントを奪っては雄叫びをあげる。
なかでも、ベスト8をかけて戦った当時の世界ナンバーワン選手、
レンドル(米国)との一戦は、いまもテニス史に残る伝説の名勝負といわれています。
強烈なショットで早々に2セットを奪ったレンドルの勝利を誰もが確信しました。
振り回され続けたチャンは足がつり、立つのがやっと。
しかし、そこからチャンは驚異的な粘りを見せた。
超スローボール、意表をつくアンダーサーブと、相手を苛つかせる作戦で徐々に
ペースをつかみ、2セットを連取。
最後はレンドルが根比べに敗れ、チャンは勝利しました。
世界ナンバーワンを破った勢いで、チャンは全仏を制覇。
17歳3ヵ月でのグランドスラム優勝は、現在も残る史上最年少記録。
アジア系には不可能とまで言われた、4大大会制覇を成し遂げたチャン。
世界ランキングも、2位まで登りつめました。
その後もチャンはたびたび4大大会の決勝の舞台に立ったが、
再び優勝することは叶いませんでした。
そして2003年、チャンは31歳で引退。
その後、チャンはひっそりと生活してきました。
その間トッププロたちからコーチのオファーは
ひっきりなしにありましたが、チャンはその一切を断り、
静かに隠遁生活を送っていました。
チャンが再び勝負の世界へと戻ることを決意したのは、
引退からちょうど10年が経った、2013年の秋。
彼は錦織からのコーチのオファーに応じました。
錦織のオファーを受けた理由をこう語っている。
「同じアジアにルーツを持つ者として感じるものがあった」
それからは、錦織への熱血指導が始まりました。
チャンはコーチに就任して早々、『きっと君は私を嫌いになるだろう』と
告げました。
これは錦織を本気で強くしたいという、決意表明です。
また、錦織に苦手な選手を聞き出し、
その選手の映像を取り寄せ、徹底的に分析しアドバイスを与えました。
チャンが錦織の指導において何よりも重視したのは、脆かった精神面の強化。
アジア人に対して好意的ではない、いわばアウェーの4大大会の舞台でも、
錦織が臆せず戦い抜けるよう、徹底的に指導しました。
さらにチャンは、錦織の技術面を一から作り直しました。
元々コーチだったアルゼンチン人のボッティーニは、比較的選手の自主性を
重んじるポジティブなタイプでした。
しかし、チャンの指導は、一切妥協を許さないものでした。
それこそ、サーブのときのボールの上げ方、
足の運び方など、ジュニアで教わるようなことをへとへとになるまで繰り返させた。
練習のときのチャンはまさに鬼と化していました。
こうして錦織は基礎技術が身についてプレーが安定しただけでなく、
『これだけやったのだから』と自信を持ち始めました。
大人しい性格の錦織は、時として相手を必要以上に尊敬してしまう
傾向がありました。
それが顕著に現れたのは、2011年にスイス・バーゼルで行われた大会の決勝で、
フェデラーに完膚なきまでに叩きのめされた試合です。
錦織はそのときのことを振り返り、『あの試合で自分を見失った』
とチャンに相談しました。
するとチャンは、『お前は試合前から負けていた』と一刀両断。
チャンが責めたのは、『尊敬するフェデラーと試合できてワクワクする』
という錦織の発言です。
チャンは、『たとえフェデラーだろうと、お前の道を邪魔する奴はすべて敵だ。
過去の成績がどうであろうと勝つのは俺だ、という強い気持ちがないと絶対に
トップには立てない』と熱く語りました。
実はこのときのの対談がきっかけとなり、
錦織がチャンにコーチを以来することとなったのです。
こうしたチャンの指導によって、錦織は確実に変わりました。
大会序盤で格下の相手に星を取りこぼすことはなくなり、たとえ格上が相手でも、
「お前より俺のほうが強い」という強気の姿勢を前面に出すようになった。
元々才能は誰もが認めていました。
しかし「何か」が足りず、世界のトップに届かなかった錦織。
チャンというコーチに出会い、その何かが埋まったからこそ、
錦織は昨年の全米でついに覚醒し、準優勝を達成。
そして次の全豪でも、ベスト8まで勝ち進んだ。
チャンの兄、カールが言う。
「今や錦織は、世界のトッププロの一人になった。
だがマイケルは、『まだまだ満足していない』と言っていたよ。
マイケルは錦織のゴールを、グランドスラム制覇、
そして世界ランク1位と決めているからね。
その目標のため、マイケルはこれからも錦織を鍛え続けていくつもりでいる」
チャンの副次的効果として、錦織には、
海外の試合でも台湾、中国系の人たちの熱烈な応援を
受けるようになりました。
人種の壁を越え、アジア人初の世界一へ。
一人では高すぎる目標も、二人ならば越えられる。
錦織とチャンは、そう信じているに違いありません。
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参考;
「週刊現代」2015年2月14日号
「スポーツニッポン」2014年9月11日付
順位を上げました。
男子テニス界は長らく、ジョコビッチ、フェデラー、ナダル、マレーが
「ビッグ4」と呼ばれその牙城を保ってきました。
少しずつそれが崩れつつあるとはいえ、世界4位といえば、
まさにそれを突き崩す順位。
まさに”快挙”という言葉が空々しく感じるほどの”快挙”。
それまでの日本人男子の最高位が松岡修造氏の46位だったことを考えると、
いかに突出した歴史的偉業かというのがわかります。
しかも、現在はまだ登り階段の途中であろうことが、
ますます私たちをワクワクさせてくれます。
彼の活躍として記憶に新しいのが、
2014年8月の全米オープンでの決勝進出。
このことに関して、スポーツジャーナリストの金子達仁氏が
次のような文章を書いています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本人選手がグランドスラムの決勝に進出するのと、
日本サッカーがW杯の決勝に進出するのとどちらが大変か――そう聞かれたら、
わたしは間髪入れずに「前者だ」と答える。
コンマ1秒の逡(しゅん)巡(じゅん)もコンマ1ミリのブレもなく、
確信をもってそう答える。
個は集団のために存在することの多い国で育った人間が、
強い個なしでは生きていけない環境で育ってきた人間と1対1で戦う。
いざ戦いが始まってしまえば、助けてくれる仲間もいない。
そんな状況で勝ち残れる日本人は、サッカーの世界におけるマラドーナ以上に
希少かつ貴重な存在である。
伊達公子だけが、頂点という領域に近づいた唯一の日本人だった。
だから、錦織圭の決勝進出は、この原稿の最初から最後まで「とてつもない」
という言葉で埋めつくしてもまるで足りないほどの、本当にとてつもない
快挙だった。
どれほどの賛辞を贈っても大げさではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(2014年9月11日付「スポーツニッポン」に掲載)
錦織選手は幼い頃からその才能が認められ、
若干13歳からアメリカのテニスエリートが集まる、
IMGニック・ボロテリー・テニスアカデミーに入学しました。
その後当時世界ランク1位だったロジャー・フェデラーに氏名され、
練習パートナーを務めたこともありました。
しかし、最近の錦織の活躍の影にはマイケル・チャンコーチの
存在があります。
2013年の12月から専属コーチに就いたマイケル・チャン。
同じアジア系として、同じ苦難を経験してきたこの男がいたからこそ、
錦織は強くなったのです。
1972年、チャンは台湾からの移民だった両親のもと、アメリカに生まれ、
1888年に16歳でプロ入りしました。
しかし、幼少期のコーチやスクール時代のチームメイトなど、
チャンの周囲の人間は、誰一人その才能を認めようとはしませんでした。
プロ入り後14年間、チャンのコーチを務めてきた兄のカールが振り返る。
「悲しいことだが、アメリカではアジア人に限らず、白人以外はみなある程度の差別を受けるんだ。たとえ才能があっても、それは免れない。弟のマイケルも、『絶対に成功しない』と言われ続けたよ。身長175㎝のアジア系移民の力を信じてくれる者は、一人もいなかった。」
そして、チャンが17歳で出場した、1989年の全仏オープン。
無名のアジア系選手のプレーに、観客は驚愕しました。
縦横無尽にコートを走り回り、どんなボールにも貪欲に喰らいつく。
劣勢に立たされても表情を崩さず、ポイントを奪っては雄叫びをあげる。
なかでも、ベスト8をかけて戦った当時の世界ナンバーワン選手、
レンドル(米国)との一戦は、いまもテニス史に残る伝説の名勝負といわれています。
強烈なショットで早々に2セットを奪ったレンドルの勝利を誰もが確信しました。
振り回され続けたチャンは足がつり、立つのがやっと。
しかし、そこからチャンは驚異的な粘りを見せた。
超スローボール、意表をつくアンダーサーブと、相手を苛つかせる作戦で徐々に
ペースをつかみ、2セットを連取。
最後はレンドルが根比べに敗れ、チャンは勝利しました。
世界ナンバーワンを破った勢いで、チャンは全仏を制覇。
17歳3ヵ月でのグランドスラム優勝は、現在も残る史上最年少記録。
アジア系には不可能とまで言われた、4大大会制覇を成し遂げたチャン。
世界ランキングも、2位まで登りつめました。
その後もチャンはたびたび4大大会の決勝の舞台に立ったが、
再び優勝することは叶いませんでした。
そして2003年、チャンは31歳で引退。
その後、チャンはひっそりと生活してきました。
その間トッププロたちからコーチのオファーは
ひっきりなしにありましたが、チャンはその一切を断り、
静かに隠遁生活を送っていました。
チャンが再び勝負の世界へと戻ることを決意したのは、
引退からちょうど10年が経った、2013年の秋。
彼は錦織からのコーチのオファーに応じました。
錦織のオファーを受けた理由をこう語っている。
「同じアジアにルーツを持つ者として感じるものがあった」
それからは、錦織への熱血指導が始まりました。
チャンはコーチに就任して早々、『きっと君は私を嫌いになるだろう』と
告げました。
これは錦織を本気で強くしたいという、決意表明です。
また、錦織に苦手な選手を聞き出し、
その選手の映像を取り寄せ、徹底的に分析しアドバイスを与えました。
チャンが錦織の指導において何よりも重視したのは、脆かった精神面の強化。
アジア人に対して好意的ではない、いわばアウェーの4大大会の舞台でも、
錦織が臆せず戦い抜けるよう、徹底的に指導しました。
さらにチャンは、錦織の技術面を一から作り直しました。
元々コーチだったアルゼンチン人のボッティーニは、比較的選手の自主性を
重んじるポジティブなタイプでした。
しかし、チャンの指導は、一切妥協を許さないものでした。
それこそ、サーブのときのボールの上げ方、
足の運び方など、ジュニアで教わるようなことをへとへとになるまで繰り返させた。
練習のときのチャンはまさに鬼と化していました。
こうして錦織は基礎技術が身についてプレーが安定しただけでなく、
『これだけやったのだから』と自信を持ち始めました。
大人しい性格の錦織は、時として相手を必要以上に尊敬してしまう
傾向がありました。
それが顕著に現れたのは、2011年にスイス・バーゼルで行われた大会の決勝で、
フェデラーに完膚なきまでに叩きのめされた試合です。
錦織はそのときのことを振り返り、『あの試合で自分を見失った』
とチャンに相談しました。
するとチャンは、『お前は試合前から負けていた』と一刀両断。
チャンが責めたのは、『尊敬するフェデラーと試合できてワクワクする』
という錦織の発言です。
チャンは、『たとえフェデラーだろうと、お前の道を邪魔する奴はすべて敵だ。
過去の成績がどうであろうと勝つのは俺だ、という強い気持ちがないと絶対に
トップには立てない』と熱く語りました。
実はこのときのの対談がきっかけとなり、
錦織がチャンにコーチを以来することとなったのです。
こうしたチャンの指導によって、錦織は確実に変わりました。
大会序盤で格下の相手に星を取りこぼすことはなくなり、たとえ格上が相手でも、
「お前より俺のほうが強い」という強気の姿勢を前面に出すようになった。
元々才能は誰もが認めていました。
しかし「何か」が足りず、世界のトップに届かなかった錦織。
チャンというコーチに出会い、その何かが埋まったからこそ、
錦織は昨年の全米でついに覚醒し、準優勝を達成。
そして次の全豪でも、ベスト8まで勝ち進んだ。
チャンの兄、カールが言う。
「今や錦織は、世界のトッププロの一人になった。
だがマイケルは、『まだまだ満足していない』と言っていたよ。
マイケルは錦織のゴールを、グランドスラム制覇、
そして世界ランク1位と決めているからね。
その目標のため、マイケルはこれからも錦織を鍛え続けていくつもりでいる」
チャンの副次的効果として、錦織には、
海外の試合でも台湾、中国系の人たちの熱烈な応援を
受けるようになりました。
人種の壁を越え、アジア人初の世界一へ。
一人では高すぎる目標も、二人ならば越えられる。
錦織とチャンは、そう信じているに違いありません。
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「週刊現代」2015年2月14日号
「スポーツニッポン」2014年9月11日付
2015年3月11日で東日本大震災からちょうど4年が経つことになります。
被災地では復興はほとんど進まないばかりか、
復旧というゼロからのスタートにすら達していない
というのが現実です。
私たちは、被災者はもちろん、震災に直接関わった人たちの
現実というものが、実はほとんどわかってないのではないでしょうか。
「わかっている」と思われている方も多いかもしれませんが、
それは単にメディアを通した情報を理解しているだけなのでは。
震災直後から文字情報や映像などで、伝えられる”現実”と
いわれていたものが、果たして本当に”現実”だったのか、
ここで改めて考えていただける機会となれば幸いです。
京都で工務店を経営する高屋友明さんは、
震災直後から、全国の工務店関係者1200名を集めて、「がんばれ 東日本」を組織し、
被災地石巻で長期に渡ってボランティアを行っていました。
高屋さんはもちろん、参加された皆さんが自分たちの仕事や収入、
生活までもすべて犠牲にして、被災者の方のために尽力されました。
被災者の方たちにとって、
まずはとにかく生活できる場の確保が緊急の課題です。
そこで技術のある工務店の職人さんの力が多いに役立ちました。
仮設住宅の建設を軸とし、床上浸水したお宅を中心に電気、水道などの復旧工事を行ったり、
一般のボランティアさんでは出来ない畳の入れ替え、床の張替え、
建具調整取り替え浸水した家の床下の泥出し消毒から大規模修繕までを
無償で住み込みで行ったのです。
2011年中には少なくとも次のような支援を行いました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
THIクリーン 床上浸水用、除菌消毒材1000本無料配布
<岩手県>
大槌町:仮設住宅134棟 +(20棟 確定)+(24棟 確定)
<宮城県>
石巻市:仮設住宅24棟
南三陸町:仮設住宅16棟
気仙沼市:仮設住宅55棟 +(10棟 確定)
石巻市:コンセント修理 38世帯
石巻市:住宅修理 46世帯
石巻市:床上浸水、床張替え 7世帯
石巻市:床下ヘドロ清掃 9世帯
石巻市:アパート全改修(避難所の方に無料開放)
気仙沼市:現在材料準備中(工事決定)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
元々、何の見返りも期待しないボランティアではありますが、
単に見返りがないのは当然としても、自分たちの生活を犠牲にして、
体を張って行っていたことには頭の下がる思いがします。
以下は高屋さんの言葉です。
「九州の佐賀県の大工さんは『被災地は手が足りてますか?』という連絡に、詳しく状況を説明すると『今から行きます!』と、20時間後に『仙台まで来ましたが、どこまで行けば良いですか?』と、20時間も軽トラックで走り続けて来てくれた訳です。(出発してから家族に電話で説明したらしい)
私と電話を切って、道具を全部軽トラックに積み込み、直ぐに出発したそうです」
「そんな熱い仲間が沢山、集まった訳です。
支援活動に夢中になり、離婚した人。自分の会社を倒産させた人。借金まみれになった人。
自殺した人。自分が二次被災者になった人も沢山います。
そこまでして『困っている人を助けたい!』という本能が行動に出た人ばかりです」
高屋さんが住み込みをしていた家も
大きな被害を受け、家族の多くが亡くなられた家でした。
その家のお母様が書かれたお手紙の内容を次に掲載します。
被災者の生の声としてメディア経由の情報とはまた違った
当時の悲惨さが臨場感を持って伝わってくるものと思います。
(2011年4月27日に書かれた手紙です)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こんにちは この度は支援・救援物資を私共の所へお送り下さり本当に
ありがとうございました。
あの日(東日本大震災3月11日)私は娘(18才)と一緒に自宅に居て一気に入ってきた
津波に飲まれました。
娘と2人でなんとか部屋から脱出し屋根に登り死を逃れましたが、
平屋の天井まで達した海水は直ぐに引く事はありませんでした。娘と2人で屋根に登り
パニック状態で呆然と立ち尽くしていと車や畳など
ガレキと共に見知らぬオバちゃんが「助けて下さーい!」と・・・
娘と2人でどうにかオバちゃんを引き上げましたがスカートの中から大量な
血が流れ出ていました。
ずぶ濡れで何ひとつ無い私達にはどうする事も出来ず、それでも3人は体を
寄せ合い寒さに耐えようと必死でした。
気がかりは、すぐそばにある実家に残して来た私の息子(4才)、父母、
祖父の安否でした。
心配しても屋根すれすれまで津波の水が来ているのでどうしようもなく、
ただただ大声で家族の名前を叫びましたが津波の押し寄せて来る音にかき消されました。
そうしている間に吹雪です全身濡れている私達の体温はみるみる内に奪われていき
体を寄せ合っていても温まる気配は全く無し。
大量の出血をしていたオバちゃんの意識も怪しくなりつつありました。
大吹雪に見舞われ、それが止む頃には今度は暴風で、その頃には辺り一面闇に
包まれ始めました。
寒さの限界に達している私達は激しい震えと眠気が交互に襲い、このままでは
凍死するかもしれない・・・と
娘と2人「しりとり」をして意識が飛ばない様に必死に続けました。
その頃にはオバちゃんは力尽き屋根に寝転んだ状態となっていました。
話し掛ければなんとか返事が出来る状態でしたが自分で起き上がる気力は
無かったとおもいます。
「朝になったら誰かきっと助けてくれるから!!」「オバちゃん頑張ってよ!」
そう激を飛ばしている私達親子でさえ、半分死にそうな状態でした。
大量に出血しているオバちゃんは
「せっかく助けてもらったんだけど、私・・ダメみたい」
「ごめん、先に逝かせて・・」と数回言った後イビキをかき始めました。
私は内心(オバちゃんは助からないんだな・・・)と思い、娘にそっと伝えました。
その間も寒さは増していく一方で娘の靴が凍り始め・・・吐く息で髪の毛が凍り始め・・・
激しい震えと眠気が止まる事はありませんでした。真夜中には風も止み、
今までに見た事もない様な星空でした。
ここ石巻、私の住む家は海から700m程しか離れていない為
海岸沿いにある工業地帯の灯が一晩中光っていて夜でも明るくキレイな星空を
見ることはありませんでしたがあの日の星空は憎たらし程輝いて、
一生あの空を忘れる事はないと思います。
何十機ものヘリが飛び交い、何度もライトを私達に当ててくれましたが最後まで
助けてもらう事はありませんでした。
ライトが当てられる度に「助けてー!」と叫びましたが、ヘリが素通りしていく度に
絶望感で一杯でした。
夜が明けるまで本当に長い長い時間を娘と2人で耐え、やっと朝を迎えました。
朝、胸の位置まで水位が下がった頃、
水に浸かりながら歩いて来た男性に「そこに居たら危ないから降りて来い」と言われ
その男性に抱きかかえてもらい屋根からベランダへ降ろしてもらい、
胸まで水に浸かり道路向かいにある老人施設に保護してもらいました。
道路向かいに歩いている途中、実家の方向を見ると父がベランダに居たのです。
嬉しくて大声で「私達は大丈夫だからねー!」と叫びました。
その声を聞いた父の返答は・・・
「お母さんと〇〇(息子)は!?」
・・・それを聞いた瞬間 まともに立っていられない程のショックでした。
実家に一緒に居たはずの私の息子、母、そして祖母・・・
その3人は多分もう居ない。
大声で泣き娘と2人で抱き合っていつまでも泣いてその日は、
そのまま老人施設で過ごしました。
ショックと寒さの震えが抜けず一睡も出来ず次の朝を迎え太ももの位置まで
海水が引いたので急いで実家に帰りました。
父に会い、津波の中 祖母のは父の腕の中で息を引き取った事を聞かされ、
私の息子と母は最後に父が見たのは「バァさんを頼むからね」
(祖母は半身不随でした)と叫び、息子を背負って廊下を走って行ったと言うのです・・・
ですが、2階に逃げ切れず津波の犠牲になったと思うと、、、
その日、家の中を父と私と娘の3人で居なくなった息子と母を捜索しましたが、
捜索もなにも・・・
畳が一番上に乗っていたりタンスや物が散乱し、3人ではどうしようもなく
一日が過ぎてしまいました。
廊下を走って行ったと言うので階段付近を何度も探したのに見つからず・・・
そしてあの日から4日目の朝、父が明るくなったと同時に捜索を始め、
間もなく「〇〇がいた!!」と。
その声に慌ててその場に行くとガレキと畳の下敷きになった息子が・・・
その手をしっかりと握りしめて母の手がありました。
母は最後まで孫の手を離さずに居てくれたんです。
私は、その冷たくなった息子を打き抱え、大声で「〇〇!!〇〇!!」と叫び
時を忘れる程 声も枯れる程 泣き続けました。
冷たくなってはいるものの顔を見れば、ただ寝ているかの様な顔で・・・
少しも苦しんだ様子はなかったのが救いです。
それは母の顔も同様でした。「〇〇」と呼んだら「おはよう みいちゃん」
と今すぐにでも目を開けて言いそうな顔で・・・親バカですが天使なような顔でした。
津波から4日目で遺体の発見。そして1週間後には火葬もして頂きました。
私の家族が火葬をしてもらえた最後の方なので 後から発見された方々は皆、
土葬にされています。
家の中で遺体発見、火葬をして頂けただけでも まだ良しと思わなければ、
まだ見つかっていない家族を探している方よりもマシなんです。
最近では自衛隊やボランティアが来てくれてガレキの撤去が進み
ずい分と片付いてきました。
ちなみに本日4月27日にも(自宅の)庭から遺体が出ました。
庭から4体、裏から4体の計8体の遺体が出ましたが、全て身元不明者です。
まだガレキに埋れている方も居ると思います。早く見つかり家族の元へ
帰れる事を願っています。
私の家族は2階があるので避難所へは行かず
1階は全滅していますが2階の部屋だけはなんとか無事ですので、そこに寝泊りしています。
最近、避難所では物資が余って来ていると聞きますが、私達みたいに自宅にいる人間には
全然足りてない状態です。
全ての物が津波で流されて水没し、一日一回の配給も何日も前の日付の
おにぎり、パン、それとたまに缶詰の支給があるだけです。
以前はカップメン等も支給されましたが 避難所で物資が余っていると
テレビで報道されてからは大企業からの物資が送られなくなったと聞きました。
避難所生活の人たちばかりが報道される中、
私達のような人間はどんな生活を送っているのか皆さんに伝わってないと思います。
生活用品の全てを失い、今回、この様に皆さまから物資を頂いて心より感謝しています。
皆さまから頂いた物は近所の方々と分け、大切に使用させていただきます。
本当にありがとうございました。皆さまからの激励の言葉を支えに家族、
ご近所の方と共に力を合わせて頑張って行こうと思っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ここまで)
手紙の中で「遺体発見、火葬をして頂けただけでも まだ良しと思わなければ」
と書かれていましたが、2015年3月11日現在、まだ2,584名が行方不明なのです。
この方は、避難所暮らしの方に無料で自分所有のアパートを貸して
あげたいという事で高屋さんたちに、修理、改修をお願いしていました。
被災者にもボランティアにも様々なレベルの方がいます。
メディアに取り上げられているのはごく一部です。
心に一生癒えない深い傷を負った被災者や
生活を犠牲にするほどのボランティア活動をした方の生の声を聞くにつけ、
あなたはどう感じるでしょうか?
彼らの多くは人生観が変わりました。
あなたにも良い方向に人生観が変わるのであれば、
それは素晴らしいことです。
もしあなたが少しでも物事を前向きに捉えたり勇気が湧いたりするのであれば、
それは亡くなられた方にとってのささやかな供養になるのではないでしょうか。
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