開卷驚奇ショスタコヴィチ | 神鳥古賛のブログ

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古典。読めば分かる。

十五曲の交響曲をものしたるソヴィエト聯邦時代の作曲家、ドミトリイ・ショスタコヴィチは、弦楽四重奏曲に於いても十五曲の作品を残したり。

十五曲とは多作ならんとすれば出来不出来もありたるべし、交響曲に於いても前期の充実振りに引き比べて、後期のそれはマンネリズムに陥りたる如く見ゆ。

その最初の大作「弦楽四重奏曲第二番」は軽快かつ明朗なる曲想もて彩られ、南欧風の要素ありてエキゾチズムあり、三楽章より北欧風に転じたるが如くにて、終楽章に於いてはあらゆるアイデアを盛り込みて殆ど収拾不可能の感あれど、英雄的主題もつて辛うじて纏めたるといふべし。

次なる初期の大作「弦楽四重奏曲第三番」は、ショスタコヴィチの皮肉屋の側面を十全に表して全篇通じてアイロニーに満ちたり、「諧謔」を一つの芸当と為したるショスタコヴィチ渾身の作なるべし。

「弦楽四重奏曲第四番」は、序曲風の第一楽章に於いて神々しくも人を圧倒せしむるオルガンの如き響きを響かせ、第二楽章は穏和なる挿入曲の如き短き曲を置き、第三楽章は諧謔的調子もて嫌味なく展開しつゝ第一楽章の主題を再現して高潮部に至り、四楽章目は続けて演奏されて全体三楽章形式の曲なりき。

和声の充実度、曲の緊密感、構成の妙味、ショスタコヴィチの弦楽四重奏曲はこれより成熟を見たると考ふ。

続く「弦楽四重奏曲第五番」は三楽章を連続して奏し、第一楽章は諧謔的主題を交響的に、または殆ど騒音の如くに掻き鳴らして荘厳たり、二楽章に於いては一転して静謐なす緩徐楽章となり、オルガンの如き響きも加味して粛然たり、三楽章は穏和にして安らぎある調子に移り、次第に重大事件に巻き込まるゝが如くにのつ引きならぬ事態に推移し行き、最後は不安を残しつゝ静かに閉じられつ。

「弦楽四重奏曲第六番」は先の二曲に比しては喧騒も騒擾もなく平穏なれども、前二曲同様の緊密感を維持して看過すべからざる秀作なり。

次いで「弦楽四重奏曲第八番」はただならぬ不穏なる序章に続き劇的なる切迫感ある曲をドラマティックに奏し、やがて諧謔的曲調を交へつゝ最後は再び不穏なる不安感を漂はせつゝ全曲は閉じられつ。

これ以降は度々かつての主題を再現さするなど、ショスタコヴィチの心象を連続して曲に仕立てたるが如くにて、即ちマンネリズムに陥りたるものの如くなり。

連続物の芝居を観るが如くにて、激情と不安と諧謔とを月並みに繰り返し、第八番ほどのオリジナリティを超ゆること能はざりき。

「弦楽四重奏曲第十四番」にはバッハの響きありて、古典への回帰と深き諦念とは感ぜられ、晩年に及び再びオリジナリティを取り戻しつゝあり、最後は安らぎを以て閉ぢらるゝなど安定したる曲なりき。

ショスタコヴィチ最後の「弦楽四重奏曲第十五番」は六つの楽章を全てアダージョもて構成し、殆ど名状し難き奇怪なる作品にして、晩年の悲愴感を奏でたるものにはあらで、新しき音楽を模索したる結果なるらし。

大作にして存在感ある個性的作品なるは疑ひなく、演奏には細心の注意を要するものなるべし。