喧騒から離れた場所で、イーディはただ茫然と煙草を途切れることなく吸っていた。

世界でひとりぼっちになってしまったような感覚に焦りはするけれど、だからといって何をすればいいのか、何処へ行けばいいのか…アルコールと薬物に支配されている思考力は、なんの答えも導いてはくれなかった。

そんな中でもイーディを心配し、訪ねてくる人々がいた。

アンディのアシスタントであるジェラード・マランガや、遊び仲間のリッチー・バーリン…ファクトリーはもうイーディには敷居が高い場所だった。

もうディランには会わない/会えないけれど、彼と親しくいつもつるんでいるボブ・ニューワースがイーディを放っておけないと世話を焼くようにもなっていた。

 

イーディはこれからのキャリアとしてモデルを目指すことにした。

ちょうどタイミング良く、ニューヨークの最先端ファッションを取り扱うブティックでありブランドだった「Paraphernalia」のトップデザイナーだったベッツィー・ジョンソンが、イーディに自らデザインした服を提供したのだ。

これはまだまだ無難な方?

 

ベッツィーが好んだのは、体にぴったりと貼りついたようなスタイル。そして、奇抜な色使いと材質を積極的に取り入れていた。細身のイーディは難なくそれらを着こなし再び注目が集まり始めた。

そこへ、「VOGUE」からオファーが届いた──「ユースクエイク」特集以来、しかも今回はモデルとしての起用だった。当時の編集長だったダイアナ・ヴリーランドとは、その特集以前からアンディと夜ごと繰り出したパーティーの席で顔見知りだった。映画「ファクトリーガール」では出版界の大物を父に持つリッチー・バーリンのコネクションを示唆するシーンが描かれていた。リッチーの取り成しが大なり小なりあったのかもしれない。

 

当時、イギリスではツィッギーがブームを巻き起こしていた。いつも完璧なメイク、最先端のルックで取り巻きを大勢引き連れてスタジオに現れる──だから、イーディが「VOGUE」のスタジオに初めて来た時、スタッフたちは驚いたという。

何の飾り気もないジーンズ姿で、ひとりでふらりと、まるで子どもが紛れ込んだかのような雰囲気だったからだ。

それが、いざフォトセッションが始まると打って変わった。

カメラマンの言葉にはにかんだように微笑んだり、時に弾けたように大笑いして見せたり…イーディのくるくる変わる表情と身のこなし方、そして妖精のような儚さを思わせるルックス。自堕落な生活をしているのに素顔にその影響はみじんもなく、シミひとつない美しい肌。それらはまったく天性のもので、スタッフたちはたちまちイーディに夢中となったのだった。

 

紙面に掲載されなかった写真のひとつ──当時のスタッフにとっての忘れられない1枚となっている。黒のガーターベルトつきの下着、白いニーハイソックス、未発達な少女のような体つき、それと正反対のきりっとした大人の女の顔、このアンバランスさがもたらす強烈な頽廃的イメージに、「この子はスターになる!」と確信したという。

 

だが、イーディが「VOGUE」に掲載されたのはこれが最初で最後になった。

ゴシップ誌がイーディの薬物乱用のことを取り沙汰して、評判をだいぶ落としてしまったからだ。それに「VOGUE」内でもドラッグ禍によってスタッフを失うといった事件も重なり、「VOGUE」としては「アンチドラッグ」の立場をとらなければならなくなった。イーディの魅力を絶賛していたスタッフたちは尽力したが、イーディはここではまだ駆け出しのモデルであり、かばいきれなかったのだ。

 

イーディの夢が、またひとつ潰えた瞬間だった。

再びアパートでとりとめのない時間をただ過ごす日々に戻ってしまった。

 

ある深夜、イーディの住むアパートが煙に包まれ大勢の消防士が駆けつける事態となった。突然の火事に、アパートの住人たちが消防士の指示で外に出てくる。そしてイーディも──火元になった自分の部屋から逃げ出し、救急車で搬送されていった。

出火の原因は、イーディの寝煙草と言われている。薬物でもうろうとなって、指の間に挟んだままだった煙草が何かに引火したのだろうと…家族に連絡をとろうとしてくれたのは親しくしていた向かいの住人だった。あちこち奔走して、セジウィック家に電話をかけイーディの状態を伝えたが、相手にされなかった。マサチューセッツにいる別の親族にも連絡してはみたけれど反応は同じものだったという。

この時イーディは経済的に困窮してしょっちゅう母親に連絡していたが、ニューヨークでの乱れた暮らしぶりに激怒した父親が援助の一切を禁じた。なかば勘当状態だったのだ。

アメリカ中に知られている名家の冷淡さに、向かいの住人は困惑と憤りをみせたが──偶然ニューヨークに滞在していた叔父と連絡がついた。彼の名はミンターン・セジウィック。イーディのミドルネームにもなっているように、セジウィック家に代々伝わる名前を持つ人物だった。

 

 

 

<参考資料>

「イーディ 60年代のヒロイン」ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン著 

筑摩書房

 

 

毎年多くのセレブリティが集まりファッションを競う「メットガラ」。「VOGUE」の編集長だったダイアナ・ヴリーランドは1971年に後継のグレース・ミラベラにその座を譲った後に、メトロポリタン美術館の服飾研究所のコンサルタントに就任した。そして、研究資金の調達を目的としてファッション業界の大物たちを招いて行ったチャリティーディナーパーティーが、「メットガラ」の始まりだと言われている。開催についてはダイアナの人脈の広さから、各方面から色々な形での力添えがあったと見られる。たとえばジャッキー・オナシス。彼女の影響力が服飾研究所でのダイアナの権限を拡大させ、「メットガラ」はダイアナのこだわりが細部にまで行き渡る一大イベントとなった。ちなみに現在のオーガナイザーは現「VOGUE」編集長であり映画「プラダを着た悪魔」の鬼編集長のモデルにもなったアナ・ウィンター。現在の「メットガラ」については、イベントの本来の意味を忘れたかのようなセレブのはしゃぎぶりに辟易しているという苦言もちらほら聞こえてくる。まるで、参加することがステータスと思っているかのような。だけど、このイベントに注目することによって、服飾の世界に夢を持つ人が増えるのは良い影響だとも個人的には思う。

 

そしてベッツィー・ジョンソンはニューヨークを拠点としたデザイナーで、イーディとはこの後も縁が続くことになる。70年代には自らの名前を冠したブランドを展開した。数々のコレクションに参加して世界で60店舗以上を出店し日本でもアイテムを販売していたが、2012年に経営破綻。ベッツィー自身は今も健在で、主にリアリティー番組に出演したり、ゲストとして他番組に呼ばれることも多いようだ。ベッツィーの作品で一番有名なのは

90年代の「リアリティバイツ」ブームで大ヒット曲となった「Stay」を歌ったリサ・ローブがPVで着ていたこのシンプルで可愛いミニワンピースだろう。

 

ところで「Paraphernalia」にいたダイアナ・デューというデザイナーが60年代に制作した、「股間が点滅するドレス」の現物を見てみたい。ある時爆発して着ていたモデルたちがひどい目に遭ったとか…

60年代はカルチャーの分岐点とよく言われるが、ファッション業界も相当に面白かったのだろうと少しうらやましくなる。

彼女の作品のひとつは現在スミソニアン博物館のタイムカプセルの中に所蔵されていて、2065年に開封されるとのこと。その時それを見た人々はどんな反応をするだろうか。

 

 

 

 

Dusty Springfieldー「The Look Of Love」(1967)

 

バート・バカラックとハル・デヴィッドのゴールデンコンビによる「007カジノ・ロワイヤル」の主題歌で、今も色々なアーティストがカバーしている名曲。あれ「カジノロワイヤル」って主題歌は今は亡きサウンドガーデンのクリス・コーネルじゃなかったか…と思ったら、この映画は1967年に制作された言わば007のパロディ作品とのこと。どおりで音楽担当にジョン・バリーの名前がなかったのか。wikiには当時バカラック氏が映画の内容に疑問を持ちながら楽曲制作をしていたという記述があって、とても興味深かった。パロディながら豪華なキャスト、そしてこの曲はアカデミー歌曲賞にノミネートされている。

ダスティ・スプリングフィールドはイギリス出身のシンガーで、その深みのある涼やかな声は唯一無二。1963年の「二人だけのデート」」をはじめとして60年代に数々のヒット曲に恵まれながら、本格的にアメリカのリズム&ブルースに取り組んだアルバム「Dusty In Memphis」は、現在も彼女の最高傑作と名高い。

長いブランクの後、1986年ダスティのファンだったペットショップボーイズとコラボした「What Have I Done To Deserve This?」の大ヒットで再びスターの座に返り咲いたが、様々なアーティストからのリスペクトを受けながら1999年、59歳でこの世を去っている。