グリニッジ・ヴィレッジで音楽活動をしていたバンドに、アンディは多大な興味を示した。彼らはその時自分たちの正式なバンド名がついたばかりだった──

ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド。

知り合いから提案された性的倒錯に関する本のタイトルを、気に入ったのだ。

そんなどこか偶然というか軽いノリでつけられたこの名前が、今現在においてもロックファンたちの間で意味ありげに、そして伝説として取り扱われているということについて、誰よりメンバーたちが鼻白んでいることだろう。

ノイジーで前衛的──誰もがこのバンドに抱く音のイメージかもしれない。

けれど、ただそれだけならばこの時代まで伝説のバンドとして残っているだろうか。

粗削りなギターの音と、実験音楽のような試み、不意に奏でられるビオラの音色。それらを支える最小限までに音数を減らしたミニマルなパーカッション…そういった特色よりも際立つのが、ボーカル/ギターのルー・リードの作詞作曲であると思うのだ。

レコード会社の雇われソングライターとして働いていた彼が作るメロディーは、時に無防備なまでに素直に耳になじむ。そして、何事も批評しないありのままをさらけ出すような歌詞の世界。

このバンドの根底に深く流れているのがシンプルなロックンロールであるということも、彼らと同時代にいたサイケデリックロックのバンドとは一線を画すところだろう。

 

The Velvet Underground

アンディには構想があった。音楽とダンス、照明、映像を組み合わせた今でいう「マルチメディア」を試むイベントを企画していたのだ。アンディは彼らに声をかけ、後にアンディ・ウォーホルの「作品」のひとつとして語られる「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル」と名づけられたアートイベントを行った。

少し話がそれるが、映像作家のジョナス・メカスが個人的にこのイベントを撮影していて、その時の映像がyoutubeに投稿されている。半世紀以上前のフィルムであることを差し引いても何が何だかわからないほど画像は荒く乱れていて、かろうじて録音されている音楽がヴェルヴェット・アンダーグラウンドなんだなとわかる程度だった。でもその場に居合わせた人々の記憶もそんなものなのではないかと邪推する。混沌と陶酔、時折激しくフラッシュする光。数多く招かれたNYの文化人たちはこのイベントを称賛したという。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのノイズ交じりの荒いサイケデリックなロックンロールとダンス。その中で鞭をしならせて踊るのは、アンディのシルクスクリーン制作助手だったジェラード・マランガ。交錯する様々な照明にたじろがずに歌う女の姿もそこにあった──それが、ニコだった。

NICO-本名はクリスタ・パフゲン

 

この頃にはもうイーディはあまりファクトリーに顔を出さなくなっていた。

自分たちが彼女の次のキャリアへの踏み台にされていると感じたのか、ファクトリーの面々は新しい「スーパースター」を迎え入れていた。イーディにどことなく面影が似ていた女の子にイングリッド・スーパースターというおざなりな名前をつけたり…

そして、ニコもすぐにその仲間入りを果たした。

 

ドイツ生まれのニコのキャリアはその長身を生かしたモデル活動から始まった。

クールな顔立ちとヨーロッパならではのどこか退廃的な雰囲気を持つニコは、すぐに話題を集めた。

そのうち女優として数々の映画にも小さな役ながら出演するようになる。フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」や、フランスでアラン・ドロン主演の映画に出ていた。そして、ニコは男の子を出産し、アリと名づける。父親はアラン・ドロン──認知を拒み、父親として会おうともしなかったという。ニコは映画界・音楽界に何としてでも食らいつこうとして、様々なアーティストたちに接近した。

ローリングストーンズのブライアン・ジョーンズ、レッドツェッペリンのジミー・ペイジ、ボブ・ディラン、ドアーズのジム・モリソン…彼らはニコの音楽的なバックアップを買って出てくれたが、今一つブレイクに結びつかなかった。そして、ボブ・ディランの紹介で、アンディー・ウォーホルと出会うこととなったのだった。

その間、幼いアリは昼夜問わずニコに連れまわされていた。深夜のパーティーにもアリの姿があった。毒親…今ならニコはそう呼ばれてSNSであっという間に拡散され、世界中から袋叩きに遭っていたことだろう。

アンディがアリのお守りをしている…ようにみえて、アリが持っているのはコンタックの風邪薬。

幼児の誤飲事故が絶えない中で、この箱を持たせるのは危険すぎる

 

アリの成長を心から心配していたのは、皮肉なことにアラン・ドロンの母親だった。

ニコの仕事がたてこんだときなどすすんで預かってくれたのだが、アラン・ドロンはそれを責めた。認知もしていない子どもなんて…と。けれど結局、アリが一緒にいたいと願ったのは母親であるニコであり、彼の少年時代においていちばん心の平穏を保てたのは、ニコがフランスの映画監督であるフィリップ・ガレルと結婚していた時だけだったという。

 

向かって左がアラン・ドロン。右がアリ。これほど似ているのに、ドロンは親子関係を断じて認めなかった

 

「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル」の成功を受けて、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはアンディのプロデュースの元、デビューアルバムを制作する運びとなった。ただし条件が一つ──ニコをバンドメンバーに加えることだった。メンバーたちは渋々了承したが、ニコの証言によれば、自分に対して最も当たりがきつかったのがルー・リードだったという。度々泣きたくなるほど、関係は険悪だったそうだ。

そして、歴史的名盤「The Velvet Underground and Nico」が完成する。

今やユニクロのTシャツにもプリントされているほど有名なこのジャケットは、上部に小さく記されているとおり、バナナ部分がシールになっており、皮をめくると中身がちゃんと印刷されている。アナログ盤ならではの仕掛けで、この手法は後にやはりアンディが手掛けたローリングストーンズの「Sticky Fingers」のアルバムジャケットでも用いられている。

そして、まじまじと見るにつけ、違和感を抱いてしまう。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムなのに、正面に載っているのはアンディの名前なのだ。肝心のバンドはジャケットの裏面に載っていた…また、プロデュースといってもアンディはレコーディングスタジオのコンソールの様々なスイッチをいじるだけだったという。

アルバムの売り上げは惨憺たるものだった。

wikiによれば、「最初の5年で3万枚」しか売れなかったそうだ。

このアルバムが正当な評価を受けるのは、それからだいぶ経った後だった。70年代末から80年代にかけてイギリスで起きたパンク~ニューウェイヴの音楽ムーヴメントにおいて、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに影響を受けたと公言するアーティストが次々と現れたのだ。

それに、メンバーたちの知らないところでこのアルバムが一つの国の革命を後押ししていた。冷戦下、ロシアの軍事侵攻に対する抵抗を続けていたチェコスロバキアで音楽家そして革命家として活動し、その後大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルが国の民主化を目指すきっかけとなったのが、このアルバムだったのだ。

当然西側社会の音楽はご法度で、1枚のレコードはコピーにコピーを重ねられる形で流通したという(当然バンドには利益をもたらさないが)。

1989年の終わり頃、チェコスロバキアは民主化が実現した。その時に起きた革命は、「ビロード革命」と名づけられた。こういった国民の行動にはいつも暴力が伴うが、この革命においては大きな衝突や流血がなく、まるでビロードの生地のように滑らかに遂行されたというところから、そして人々を民主化に駆り立てるきっかけとなった「ヴェルヴェット」・アンダーグラウンドの存在もまた、その名前の由来となったのだ。

 

ファクトリーの顔ぶれが、短期間で切り替わっていた。

イーディのいた場所にニコと終始不機嫌で情緒不安定だった息子のアリがいて、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドがバンドの練習をしている。

アンディが監督した映画「チェルシーガールズ」では、イーディが出演するシークエンスが書き換えられ、そこにニコが収まった。

イーディはそれでもかまわなかった。

何故なら、彼女の短い人生で最も燃え上がった恋をしている最中だったからだ。

 

 

Velvet Underground And Nico-「All Tomorrow's Parties」(1967)

 

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの中で好きな曲のひとつ。

この低い声のボーカルがニコだとは最初とても信じられませんでしたが、ニコの声があってこその曲だと思います。この動画、バンドとニコの関係の微妙さがよくわかるような。息子のアリがニコの足元にいて、きょろきょろと演奏する大人たちを見ている姿が可愛くもあり何というか…

 

<参考資料>

「イーディ 60年代のヒロイン」ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン著 

筑摩書房

「さよならアンディ ウォーホルの60年代」ウルトラヴァイオレット著

平凡社

「ニコ/ラスト・ボヘミアン」ジェームス・ヤング著

宝島社