「ファクトリー」に出入りしていた人たちの多くが、有名無名問わず「スクリーン・テスト」を受けた。3分の間、被写体はアンディが回すカメラ越しの無遠慮な視線に晒されることとなる。それらの映像は後年写真集になったり、ショートフィルムとして部分的に公開された。そこにいる人々の多くは表情もなく、ただカメラを見つめているだけなのだが──

鑑賞するこちら側にとって、その「無」の中に色々な印象を受けるのだ。

たとえば、無邪気さ。居心地の悪さ。心のうちまでは見せないという凛としたまなざし。

イーディはどうだろう。髪を短く切り銀色に染め、ありふれたボーダーのシャツを着て、大きく目を見開いてカメラを見つめ返している。そのカメラの後ろにいるアンディはその姿を見て何を思ったのだろう。

上流階級の娘が、自分を真似た格好をして自分を見つめているのだ。

 

それからアンディは彼女をメインにした映画を何本か撮った。特にはっきりとしたストーリーもメッセージ性も見当たらない、むしろそれらのドラマティックさを一切排したような、アバンギャルドな作品ばかりだった。

そして、有名人が集まる色々なパーティーにイーディを同伴させた。

よく似た身なりの銀髪の二人組は、どこのパーティーでも注目の的だった。それはアンディにとっては好都合でもある──新しいパトロンを見つけたりアーティストとしての自分の名を売る絶好のチャンスでもあったからだ。地方から出てきた何の後ろ盾もないアンディにとって、上流階級出身のイーディは、ハイソサエティの世界へのパスポートとなった。それにイーディがこの関係に恋愛を持ち込まない事も。

今までの「スーパースター」たちやファクトリーの取り巻きの女性たちの何人かは、時折互いをけん制しながらアンディに近寄っては拒まれていた。女性に性的な興味を持たない彼にとっては煩わしい事柄だったのだ。

そしてイーディは、毎日のように新聞の社交欄──今で言うセレブニュースのようなもの──に載る自分に舞い上がるような気持ちだった。

毎夜あちこちのパーティーに顔を出し、すぐ次のパーティーへと移動する。

楽しいことを探すさながら回遊魚。

 

「わたしは自由!わたしはスター!」

 

イーディの「楽しさ」への追及は、必死ささえ漂っていたという。

何かに怯え、見ないふりをして夜の街を駆けぬける生活が続いた。

 

イーディの両親は、ニューヨークで奔放な生活をしているイーディの事はもちろん、彼女のもう一人の兄のボビーについても頭を悩ませていた。

ボビーは父の描いた理想を叶えてくれた。ハーヴァード大学に入り、社交クラブの一員となること──

でも、それだけだった。

 

当時ボビーの周りにいた人々からも、そこから彼が将来に向けて何をすべきかもしくは、卒業後何をしたいのかという話は聞こえてこなかった。いや、それでも美術を本格的に学ぼうとしていたんだ、と言う人物もいる。

美術の教授のもとで熱心に学んでいたはずなのに、クリスマス休暇の帰省から戻ってきた頃にはそれの一切を投げ出すようになったというのだ。

その豹変の理由を教授が問うと、ボビーは父親にバカにされたと答えた。

父親が何を思っていたのかはわからない。けれど彼はボビーを否定したという。特にガールフレンドの事…我が家よりも格が落ちる家の娘との交際は許可しないと。

ボビーが目的をもって学業に励んでいたのは、少なからずそのガールフレンドの影響もあったのだろう。しかし父親がボビーに言い放った言葉は──「お前の頭の程度などたかが知れている。せいぜい金持ちの女を捕まえることだな」

 

ここでも父親のねじくれたコンプレックスが顔をのぞかせている。

名家のならわしとして息子をハーヴァードに入学させなければならないというプレッシャーのようなものと相反する、息子への嫉妬。

息子には自分と同等かそれより少し劣るくらいでいてほしい、自分がここまで歩んできた道をそのままなぞればいいのだと。それに、このステータスを保つにはそのガールフレンドでは無理がある(彼女だってミシガン州の貴族階級に属していたが)。

そうして”自分”を失ったボビーは学内で癇癪を起こし暴れ、精神病院に担ぎ込まれることになってしまう。そんな彼に心を痛めたのは、家の閉塞と異常さにいち早く気づいて独立し、父親から半ば勘当扱いされていた長姉だけだった。彼女は自分の親の冷たさをよくわかっていた。自分たちの手に負えなくなったら放置というやり口も。

 

それでもボビーは色々なコミュニティに顔を出し、そこそこ親しい友人も何人かできた。精神的な問題を抱えながらも、大学院で再び美術を学ぶ気持ちにもなったはずだったが、埋められない孤独感が彼の心のうちで破滅衝動に形を変えて巣食うようになった。

 

1964年の大晦日。

ニューヨークでボビーが運転するハーレイダヴィッドソンが、バスに激突した。

その一報を聞いた友人はいつかこうなることを常々予感していた。日頃から運転の粗いボビーに幾度となく注意していたからだ。

ケンブリッジにいたはずのボビーがなぜニューヨークにいたのか。

ボビーは、本当はイーディとふたりで新年を迎えたかったのだった。しかし、イーディのニューヨークでの騒ぎを耳にしていた父が、イーディを家に連れ戻していた。

イーディのいないニューヨークで、ボビーは家族みんなから見捨てられたように思ったかもしれない。ボビーだけ帰省を許されなかった孤独の中での事故だった。

すぐさま病院に運び込まれたが、結局意識を取り戻すことなく10日後に亡くなった。

最期を看取ったのは、長姉とケンブリッジにいた妹のふたり。

両親は一度も病院に駆けつけることはなかった。火葬まで取り仕切ったのは長姉で、父親は彼女に灰となった遺骨をカリフォルニア・サンタバーバラの郵便局留めで送るよう言っただけだった。長姉はそれ以後の行方を知らないままだ。名家にふさわしい葬式が執り行われたのだろうか、それとも…

 

イーディにしても駆けつけられない理由があった。

カリフォルニアで交通事故を起こし、イーディの運転する車に同乗していた友人ともども大けがを負って入院していたのだ。イーディは病室で怯えていた。このトラブルによって、再び家や精神病院に幽閉されてしまうのではないかと…おそらくそうなるのではないかと予想したイーディの母が、なんとかイーディをニューヨークに逃がすことにした。亡くした息子のことが頭をよぎったのかもしれない。

 

ギプス姿でニューヨークに戻ったイーディは、無力感に支配されていた。

またしても、きょうだいを助けられなかった…あの家の呪いから逃げることはできないのかと。

逃げなければ──イーディは長いドレスでギブスを隠し、パーティーに赴いた。そこにいた彫刻家に頼んでギブスを削り落としてもらい、クローク係からハンガーを何本かもらって、誰かのネクタイでそれを足に結わえ付けた。そして、朝まで踊りとおした。そうやって自分に襲いかかってくるものすべてを忘れようとすることしか、イーディにはなす術がなかったのだ。

 

<参考資料>

「イーディ 60年代のヒロイン」ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン著 

筑摩書房

「さよならアンディ ウォーホルの60年代」ウルトラヴァイオレット著

平凡社

 

 

 

 

Cass Eliot&The Lovin' Spoonful-「Didn’t Want To Have To Do It」

 

ラヴィンスプーンフルのヒット曲を、ママス&パパスの”ママキャス”ことキャス・エリオットが歌ったヴァージョン。もともと1つのバンドとして活動していましたが、ラヴィンスプーンフルを結成した方とママス&パパスに合流した方とで分裂した縁から、このカヴァーが生まれたのでしょうか。

ママス&パパスはなんていうか明るくて可愛らしいフォークグループのイメージ(とはいえバンド内不倫だのジョンフィリップスが娘にした数々の虐待など色々逸話ありますが)ですが、そういったフォーマットから離れたママキャスの声はとてもあたたかくて、しばらく彼女の世界に浸っていたくなる魔力があります。

 

そんなママキャスといえばやはりこれが印象に残ってる

1967年の伝説のモンタレーポップフェスティバルで客席からジャニス・ジョプリンのステージを観ている姿…「ナニスゲーコイツ…」と半ば呆然としながら歌に聴き入っている。

そして、曲が終わった後ワーオ!と興奮気味に拍手を送っていた。

この時ジャニスは24歳。もう既に「フェスの女王」の風格がみえているが、時折見せる笑顔と仕草がとても可愛い。この3年後ジャニスは世を去り、ママキャスもまた60年代の熱が醒めた74年に32歳の若さで亡くなっている。