イーディが送られたところは、いわゆる「セレブ向け」のリハビリ施設だった。

比較的症状の軽い患者を受け入れ、ホテルのような作りの豪奢な施設で、患者たちは望めば自由に外に遊びに行ける───イーディは自分の内面の病をごまかすかのように、親のツケで買い物を楽しんでいた。勿論病状が回復するわけもなく、結局ニューヨーク州の「閉鎖病院」に入れられることとなる。閉鎖とは恐ろしい響きかもしれないが、本来の治療をようやく受けることができたのだった。

撮影時期は不明ながら、幼さの残る可愛らしいイーディ

 

イーディが退院したのは二十歳の時。

作業療法の一環として始めたデッサンの才能を生かそうと、マサチューセッツ州ケンブリッジで美術の勉強をすることになった。

ケンブリッジには、有名な大学が二つある。一つはマサチューセッツ工科大学。そしてもう一つ、ハーバード大学である。彼女の兄たちに課せられた進路だった。

 

きょうだいの中でもとりわけイーディと仲が良かった兄のミンティは、雄々しさを求められたセジウィックの男たちの中では異色だった。彼を知る人々はみな、彼の優しさとナイーヴさに惹かれたという。勿論イーディのきょうだいたちに共通したルックスの良さもあっただろう。そんな彼が、イーディを歪ませた牧場での暮らしに耐えられるわけもなかった。二十歳前に酒に溺れ心を病み、ハーバード大学をドロップアウトしてしまった。父親の描く理想像───ハーバードでフットボール部に入り、社交クラブ(ハリウッド映画の青春ストーリーに出てきがちな体育会系スクールカースト上位の”陽キャ”がたむろする場所)で青春を謳歌する───にはなれなかったのだ。

父親はそんな彼を時には暴力的に叱咤した。息子の内面の弱さに殊更苛立ったのは言うまでもなく、自己投影のせいだったのだろう。

それからミンティは精神病院の入退院を繰り返すことになる。

アルコール依存の問題を抱えていたとはいえ、彼を縛りつけ薬漬けにする必要がほんとうにあったのだろうか?彼自身を認め、尊重する事が緩解へつながる一歩だったのではなかったのか。

結局ミンティは26歳の若さで自らの命を絶った───イーディがかつて入院していた「セレブ向け」病院の個室で。

ミンティという呼び名を彼は嫌っていたという。父親がつけたあだ名であり、そこには父親が侮蔑した女々しさが内包されていた。

ほんとうの名前はフランシス。父親と同じ名前だった。

 

イーディはその報せをケンブリッジで受け取った。

つい最近、ミンティとは電話で話したばかりだったという。

きょうだいの中で一番気が合うイーディと、最後に話したかったことはなんだったのだろうか。

その死の後、イーディはがむしゃらと言っていいほど「自由」を追い求めた。

そう、家族というしがらみに囚われてしまわないようにと。

 

<参考資料>

「イーディ 60年代のヒロイン」ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン著 

筑摩書房

 

 

The Posies 「Coming Right Along」(1993)

ニルヴァーナが中心となって巻き起こしたグランジブームの真っただ中にいたパワーポップ系のバンド。この曲はまるで消えそうで消えない微かな青い炎のようです。