芸人というものはプライドが高い。これは誰でも高い。こんな奴までというのまで、もれなく高い。恐ろしい事だ。
ちなみに謙虚ぶってても高い。そうみせてるだけだ、その方が得だから。
さらには全くそう見えないんですけど、という芸人に至ってもプライドは高い。
ちなみに小笑兄さんと夢七君はトップクラスに高い。
小笑兄さんは、女のくさったような事を腹式呼吸で言う。それもプライドの高さゆえだ。しかし、高座の声は小さかったりする。
また、兄さんは繊細な生き物なので、デリカシーのない奴は嫌いだったりする。
だからそういう奴と話している時は、これ以上話しかけるなの感じで、ゆっくりゆっくり背中を向けていく。プライドの高さゆえの背中向けだ。
円菊師匠が高座でナナメをあみだしたけれど、会話の途中でゆっくり背中を向けるのは特許ものだと思う。
夢七君のエピソードは本当に面白いのだが、流石にブログでは書けないレベルだったりする。何というプライドの高さ。ブログにも書けない。
じゃあ、私はどうかと言われれば、プライドが高い。
もっとも最近は「貪欲だなぁ」の方が言われる。
欲を貪ると書いて、貪欲だ。ちょっと、ごめんこうむりたい輩だ。
実際は人の考えを聞くのが楽しくて、色々聞いてしまうだけなんだけれども。
ただ入門直前とかは、多少の勘違いはないと一歩を踏み出せないので、ここらへんは良い面と悪い面がある。
ちなみに私は酷かった。仲々のものだったよ。弟子入り志願をして、初めての面接時の会話。
「古舘君は(私の本名)落語も好きなようだけど、何で講談なの❓」
と師匠に聞かれて
「そうですね。まぁ、講談の方が向いていると思いまして」
と言ったのだ。ちなみに落研ですらないし、人前で全く表現したこともない奴のセリフだ。
今ならぶっ飛ばしてやりたくなる。何という厚顔無恥。
これに対して師匠は大人だった。
「うーん。まぁ、やってみないと分からないからね」
そりゃそうだ。グローブもはめた事がない奴が、サッカーより野球の方が上手いと言ってるようなもんだから。
それに対して私は、やって見なくても分かりますよ顔をしていた。
何という気持ちの悪い奴だ。死んだらいいのだ。
あの根拠のない自信が怖い。
しかし、多かれ少なかれそういう面はみなある。口では謙遜した言葉を話していても、自信はある。言わずもがな。
ただ、そういう自信を打ち砕くにはどうすればいいかは、私はよく知っている。
自分の芸を客観的に聞く事だ。これが大事だけれど、これも諸刃の剣なんだ。
私は最近まで、あえてやらなかった。
というのも、今はテクニックよりも過信するほどの自信が必要だと言うことを知っているから。現実を突きつけられて訂正するより、過度な自信の方がいい場合がある。だから聞かなかった。
勿論、多少はそういう仕事もあるから、聞かざる得ない時もあったけど、極力聞かないようにあえてしてきた。
しかし、そろそろ自分の音をチェックしてみようかなと、高座の音を録音して聞いてみた。
うーん。もうね。えらいことになっている。予想以上に酷い。イメージでいうと、自分の中で聞こえている感じの5割減のイメージか。
言うまでもなく、自分が聞いている音と、ICレコーダーに吹き込んだりお客様に聞いて頂いている音は違う。
あくまで私の体で発し、聞いている音を前提に講談をしてるが、お客様に聞こえている声とのズレがえらい事になってる。
途端に自信喪失。分かってたけど、これは酷い。
昔、大師匠は小伯山時代だったか。本人曰く自惚れていたらしいが、自分の声を聞いて驚いたという。俺はこんなに下手なのかと。しかもお客さんに「昔よりずいぶん上手くなったよ。」と言われて、昔はどんだけ下手だったのかとガッカリしたというエピソードがある。
また、六代目菊五郎は、小津安二郎に舞踊を撮らせた。試写会にて、己の姿を初めて客観視した六代目は
「俺はあんなに下手なのか。」
と言ったそうだ。カメラワークに文句を言ったという人もいるが、絶対そんな事ではない。
自分のイメージとお客様が見ている聞いている物が違いすぎるのだ。恐らく、菊五郎のイメージは驚くほどの境地で踊っていたのであろう。
ここらへんは演者しか分からないかもしれない。
圓生師匠などは、時代もあってか自分の芸をシビアに客観視していた人だ。自分の芸を残す作業にあって、スタジオにて何度も撮り直して作業に向かった。
自分の録った音を、良い時にはうなずきながら聞いていて、ダメな所は舌打ちをしたりと、自分の芸を冷静に客観的にみていた。
かように、自分が発した音のイメージと、外に出された時の音は異なるものだ。
ここと向き合う作業が仲々にしんどい。しかし一つ得られる事があって、非常に自分の芸に謙虚になれるのだ。あぁ、下手だと分かる。
もっともマイナス点もあって、あまりに下手なゆえに自信喪失が一つ。また、録音は基本、大間の方が綺麗に聞こえるゆえ、そういう風になりがちになる。ゆっくり喋る感じになる。
これで、若さの勢いが出なかったりする。難しい。
演者は自分自身の芸を見ることができない。音で、あるいは動画でみるくらいだ。
それでは伝わらないLIVE感も多々あるだろうに。結局最後までイメージをお客様にぶつけるしかない。
自分の高座だけは、前へ回ってお客様にはなれない。
私が聞いている音をお客様が聞ければ、どんなに良いかと思う事がある。そういう装置発明されないかなとも思う。
一生、芸は自分の耳とお客様との耳との違いに振り回される。
上手い演者も、比例して評論家としての自分が高いから、一生評論家の自分には認めてもらえない。特に若いうちは頭でっかちで、技術がないくせにプライドは高いから追いつかない。
なんてこったい。早く自分がいいと思う芸をやりたいよ。
しかし、現実と向き合うのは何と辛い事だか。別に上手くなくてもいいけど、下手では困る。
そういえば昔、演芸好きの友人に
「講談、上手くなりたいよ」
って言ったら
「上手くなりたいと思ってたんだ。へぇー意外だわ。」
と言われたな。
そうなんだけど。最低限は必要だ。