小笑兄さんの落語について書く。
それを書くには、ビクターから数年前に出された初出し音源、先代馬生師匠の「うどんや」の話をしたい。
このCDが素晴らしいのだ。正直途中まで、何故こんなに面白いのに初出し音源なのか分からなった。ところがすぐに答えは出た。
馬生師匠の咳が凄い。この翌年、食道がんで亡くなられている事もあってか、明らかにその影響だと思われる。数十回にわたる咳。
ところが、ところがである。
確かに咳の数は多いのだが、その咳が見事に噺に昇華されている。
寒い寒い、どうしようもなく寒いであろう、江戸時代の空気感が伝わる。
若手にしろ、ベテランにしろ、少し噛んだだけでお客様はそっぽを向く。噺はかくも壊れやすい繊細なものだ。それは、所詮作り事だと分かってしまうからかもしれない。
それが何十回もの咳で壊れていない。むしろ落語リアリティは増すばかり。理由は分からない。
私の勝手な主観によるものなのか、馬生師匠のテクニックか、どん底の貧乏生活をしてきた人が経験的に染み付いた香りなのか分からない。
何となくこれは名人の域に達した人間だから出来る事なんであろうと、その時は思った。当然若手は出来ないのであろうと。
そう、この流れを読んだ人、まさかと思ったと思う。
この流れで、小笑がと。この話は小笑とは何の関係もないとハシゴをはずしてボケたいところだ。
だが、何の神のイタズラか、兄さんは特定のジャンルの噺においては壊れないのである。
そもそも小笑兄さんの落語というのは、見た事がない人のためにいうと、決して上手い落語家ではない。というか、上手い下手の土俵にのってないのである。だから、のせられたら弱い。これほど賞レース向きでない落語も珍しい。
ただ特定の自分に向いている噺において、本能で落語をやることに長けている。だから一言でいうと「本能の落語家」といえる。ナマケモノがなまけるか如く、ナチュラルななまけ方が出来る。なまけるとか、寝るとか、サボるに関して、これほどの動物はいない。
だから、何をやっても小笑でいい話は非常に強い。それ以外は非常に弱い。演じられないのだから。
この前「天狗裁き」をやった際の天狗は、悪ふざけした農民にしか見えなかった。
そもそも「ネタ下ろしで緊張するからね、いざとなったら、いざとなったらだよ。一陣の風をふかしてすぐに天狗を出せばいいんだから」
凄い意気込みだ。
だから、噺によって凄く面白くなったり、つまらなかったりする。自分の枠は越えられない。
芸人は多かれ少なかれそういうものだが、兄さんは極端にそうだ。パーソナリティーが強すぎるのであろう。
小笑兄さんの得意なジャンルは貧乏と駄目な人である。これに関しては凄い。スペシャリストだ。
恐らく、標準装備で体に入っているのであろう。
グズグズ寺において「目薬」という噺をネタ下ろしをしてもらった。
短い小噺だ。
無筆の夫婦が目薬の付け方が分からない。仮名で「このくすりは、めじりにつけてもちいるべし」これを女尻につけてもちいるべしと読んだ夫が、女房の尻に粉薬をつける。尻につけた時におならが出て、粉が飛び散り、夫の目に入り
「あぁ、この薬はこうやってつけるんだ」というサゲである。
何てことのない小噺。
ところが、兄さんがやると人情噺を聞いたような満腹感がある。
特別にセリフを変えているわけはないが、兄さんの「目薬」は、もう何か凄い貧困なのだ。
貧しい吹きっさらしの江戸の風が入ってくるのが伝わる。最下層のくっつきあいが凄いのである。夫婦に絶望的に学がないのがいい。もう全然駄目で、それでも明るく生きているのである。
そういうのをこの噺で感じた事はなかった。技術で演じる人には、ここらへんは絶対に出ない。所詮作りもの。書き割りだ。
なぜか小笑兄さんだけ、ナチュラルに描けるのである。作り物でないから、咳をしようが、落語技術として下手であろうが壊れない。志ん生師匠が言っていた「世の中ついでに生きている人」を実に見事に描く事が出来る。奥行きが凄い。
「船徳」の若旦那の駄目さもいい例だ。どこまでも噺の肝である、若旦那の駄目さ加減が凄まじく、どんなに落語の運びに難があろうと壊れないのである。
そういう人にグズグズ寺でネタ下ろしをしてもらい、向いている噺も向いてない噺も見ることが出来るのは、私としては非常に楽しい。
今月は「反対俥」。私がリクエストした、最も兄さんに向いてない噺。
正直、チーターが速いのは知ってる。それも見ていて気持ちがいい。
ただ私は、ナマケモノが走るところを見たいのだ。変な走り方でやたら遅いとは予想がついても。