これは一年前、談志師匠が亡くなった際に書いた文章から抜粋したものです。
まだ私が前座時代ですね。
芸人がブログに書くべき内容かも分かりませんが、講談師になった理由の根幹の父性について書いてあるのでまぁいいかなと。ここらへんは、はぐらかさずに書こうかなと。
落語家だったら書いてないでしょうけど、講談師だからいいやと載せました。
めんどくさい文章なので、そういうのを求めてない人は読まないで下さい。
以下、引用
【私は子供の頃から死について人一倍考えている。それは小学4年の10歳の時に父親が突然亡くなったからだと思う。本当に急だった。
そして子供ながらに、人間は死ぬんだと強く認識した。
私はクラスでもとびきり明るい子供だった。それは明るい人間だけに許される特権のように、毎日先生には怒られ愛されるような生徒であったと思う。
父親の葬式の時に、私は泣かなかった。涙を我慢するわけでもなく泣かなかった。
ただ弔問に担任の先生をはじめクラスメイトが全員で来た時に、いままで泣かなかったのが嘘のように、せきをきったように嗚咽した。恐らくクラスメイトも困惑したと思う。それは私が今まで誰にもみせた事のない姿だったし、私自身体験した事のない感情だったから。
そういえば私は子供の頃、勝手にかくれんぼを始める癖があった。子供というのは勝手なものだから相手がかくれんぼをしている認識がなければ誰も探してくれないのに勝手に隠れて、遊びを始める事がある。
小学生2年くらいだったろうか池袋を父親と歩いていると、勝手に思いつき急にかくれんぼをした。
ところが父親は私がそんな事をしているとは気付かずに何処に消えてしまった。私はエンエンと泣く事だけしか出来なかった時に、優しいお姉さんが警察に連れていってくれた。名前と電話番号を泣きながら言った。
何故僕は急にかくれんぼをしたんだろう。お父さんがいなくなっちゃったとひたすら後悔で泣いていたのを思いだす。
しばらくして父親が仏頂面で迎えに来てくれた。その時にどれだけ僕はこの後怒られるんだろうとびくびくしながらそれでいて、もう大丈夫だという安心感でビャービャー、より一層泣いていたのを思い出す。
父親は何も言わなかった。
怒るでもなし、優しい言葉をかけるでなし。私は父親に大股でおいていかれそうになるのを走るようについていったのを思い出す。今考えれば父親はあの頃から心の病気であったのだろう。
私は父親が死んだという事実が、もう二度と迷子になっても迎えに来てくれないという絶望におそわれていた。
だからいつでも迎えに来てくれるはずの父親が死んだ葬儀に、クラスメイトが全員来てくれた時の安堵感は今でも言葉で表現出来ない。
私はその3日後、自然を装ってクラスになじもうとした。事前に担任の先生が話しをしたのであろう。
皆、私に優しく、私は安心をしてまたクラスの人気者としてふるまった。
ただ今までと違うのは話している最中、ふと父親の事を考えた時に能面のように私は笑わなくなった。もちろん、あいかわらずクラスメイトと仲良く話しをしているのだが、ふと自分の笑顔に罪悪感を覚えた。
父親は死んでいるのに笑っていていいのかなと。
私は笑う事に罪悪感を覚える人間になっていった。
それでも一日中ほぼ笑っていたが、確実に能面の時間があり、私にとってはこの能面の時間と
付き合うのが私の人生なんだなと朧げに思いはじめた。
中学、高校と私はこの能面の時間と付き合っていく中で、談志師匠と出会った。
まだ私が高校生の頃であったか。航空公園駅から歩いて10分の会場で
談志師匠の独演会があった。前売り券を手に持ちながら開場時間の19時を待って、外にいたのを思い出す。
季節は真冬で、かじかむ手にあったかいコーヒーで期待を膨らましていた。会場に入り、演者と客層が作りだす空気感に呼吸が苦しくなるような緊張感をともなって席についた。
私はまだこの時、浅草演芸ホールの寄席に三回行った程度であったから、今となれば空気感の違いは当たり前だと分かるが、当時は、ただただ緊張感で開演前から吐きそうになりそうなのはあの会の他に見当たらない。
やがて緊張感を増幅させるように二番太鼓がなり、開演5分前を知らされた。
やがて出囃子がなり、ゆっくりゆっくり談志師匠が現れる。物凄い緊張感。
座布団に座りお辞儀をして、談志師匠が顔を上げた。満面の笑みだった。
一瞬にして、会場の空気がかわる。突き刺さるような緊張感から笑顔ひとつ
で解放された時に、一瞬にして私は立川談志を好きになった。
やがて
「ここ暗くて、誰も客なんかこねぇんじゃねえかと思ったら満員だ。俺、最近客くるんだよな。一番くるんじゃねえか…」
私はただただ圧倒されていた。「勘定板」でさんざん笑い、続く「らくだ」で私はこの人の弟子になろうか迷った。
あの「らくだ」は全てが表現されていたようにおもう。くずやの卑屈な人生、喜び哀しみ、女房子供がいるから自分をおさえている人生が、物凄い奥行きのある表現としてみえた。
また、生前のらくだと呼ばれる男の乱暴さとその奥にある寂しさが表現されているのを見て、私は凄い物を見ていると中盤からサゲまでずっと鳥肌が立っていた。
初めての経験でまさにカルチャーショックだった。サゲの後もしばらく立てず、帰る道すがら10分以上鳥肌が立っていた。
私はそれまで名人芸や至芸と言うものは言葉遊びだと思っていたのが目の前でされた。その衝撃といったらなかった。
何故私はあの場で弟子入りをしなかったのだろう。今でも不思議に思う。
それから談志師匠を追っかけた。それは私の父性への満たされなさを談志師匠に感じたのか。
はたまた能面のような私にだけ分かる落語に思えたのかは今でも謎だ。
ただあの「らくだ」は私が求めていたものには違いなかった。
それから私は講談師になることにした。細かく話せば長くなるが、要するに師匠の松鯉にもほれたのだ。談志師匠とは違うベクトルで、松鯉はずっと浸っていたいようなたまらない講談師だったから。
談志師匠の訃報を聞いたのは末廣の楽屋だった。11月下席、1年に1度の師匠松鯉の芝居。
1階の楽屋、前座もくさるほどいて動きにくい末廣。若手真打ちの某師匠が二階からおりてきて
「今、談志師匠が死んだって。ニュースでやってる」
私はあまりの喪失感でボーッとしていたのを思い出す。そうか今は談志師匠のいない世界にいて、談志師匠がいなくても当たり前のように寄席がやっていて、落語界が続いていくのが不思議でしょうがなかった。
それから涙が馬鹿みたいに出そうになったので、思考するのが嫌になり、馬鹿みたいに前座仕事をした。着物の着付けたたみと、普段なら後輩に任せるのを取り憑かれたように自分でやった。
後輩に「今日、兄さんやたら働きますね」と言われた。確かにこんなに懸命に前座仕事をした事はなかった。
やがて師匠の松鯉が楽屋入りをした。私は父親の葬儀を思い出した。もうだれも迎えに来てくれないと思っていた時に、クラスメイトが現れた時同様嗚咽しかけた。師匠の顔を見て心底安心した。
談志師匠が亡くなっても、まだ私には松鯉がいると思った。
師匠は二階に行った。すぐさまついて行き、まだ訃報を知らないようだったので、私がほとんど震える声で談志師匠の死を伝えると、だいぶ間があって
「そういう大きな事は突然くるよな」と呟くようにいい、談志師匠の2、3の思い出話を喋り、優しい言葉をかけてくれた。
ふと、松鯉の死を考える。想像するだけでおかしくなる。
師匠が生きているのを非常な喜びとして記しておく。】
以上、引用
うーん。講演会の仕事いけるね。目指せ小金治。
\(^o^)/