ある対象を批判するとは、それを正しく評価することであり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。
批評は、非難でも主張でもないが、また決して学問でも研究でもないだろう。それは、むしろ生活的教養に属するものだ。学問の援用を必要としてはいるが、悪く援用すればたちまち死んでしまう、そのような生きた教養に属するものだ。したがって、それは、いつも、人間の現に生きている個性的な印しをつかみ、これとの直接的な取引きに関する一瞬の発現を基盤としている。
(「考えるヒント」の「批評」より抜粋/小林秀雄)初出:昭和39年読売新聞
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2014年は初めて書評連載をやったのだけど(今年も連投します)、1年連載し終えて、改めてこの文章を読むと小林秀雄の言うことがよーく分かるのです。わたしは「仲人」のような気持ちで書評を書いた。自分にぴったり合うものも合わないものもあるけれど、作品のよさを見つけ出して、そのよさを必要としている人にマッチングさせる、そのための文章をつづっていった。そうしたら、なんか、みんなハッピーじゃないですか。
そんな考えは甘いのかなと思っていて、ふとこの文章が目に留まってびっくりした。小林秀雄が、批判とは「積極的に肯定すること」と言っていた。悪口じゃない、と。積極的に肯定するためには、ほかと比べてどういいのかを語らなければいけない。「対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければなら」ない。
「生活的教養」っていいな。わたしはこれを等身大の自分の心を動かして感じて考えることだ、と理解しました。
先週から文章講座が始まっている。自分の心が全ての文章の起点になる、と、わたしは講座の間中ずっと言い続けるつもりです。34人の受講者がいて、34通りの心があって、34通りの文章が生まれてくるはずなのです。それをうまく引き出せたら、どんな名文家も逃げ出すくらい魅力的な文章が生まれてくるはずなのです。
「積極的に肯定すること」。これは人を見るときも同じかもしれない。なんかいい言葉だなあ。セッキョクテキニコウテイスルコト。自分に対してもやってみようかな。
風邪、あとは鼻づまりだけ。風邪だったのかも謎。体重は戻って、結局正月からは0.6kg減。2キロ減ったって騒いでたのに…。ひたすら家で翻訳の校正仕事をしていた。校正というかほぼわたしが訳してるし…こんなに訳抜けがあるなんて原文への愛が足りないわ…と思いながら、1から訳す作業を思うと気が遠くなるので、翻訳業には手を出さないでおこう…と自分に言い聞かせる。
準備中のSF小説の語り形式をどうするかが解決した。面白いと思う。あとはいくつかの矛盾を説明する設定を考える。考え終ったら書きはじめられるかな。
今日はなぜかいろいろな人から連絡が来た。人のつながりがわたしを育ててくれるなあと思った。感謝。