天元禄語 | 太田湾守−Irie Ohta−のブログ

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能率、有効性、必要に強いられて生存しているものに、

べつの有効性と能率主義を与えて解放できるという思想はサギ以外のものではない。

総じて抽象的な〈論理〉と〈無効〉性を身につけるながい道程のなかにしか弱小なものが解放される方向はない。



自分がそうと思わないことは、絶対するなっていうこと。そうと思える範囲内でしか行為をすべきではないと。もし、それを超えて行為すると、かならず間違えるよ。かならず間違えるから、だめだから、人間は必然的にそうだっていうふうに思える範囲内に、自分の行為っていうものを留め置くべきだ。それを留めないで、何か違う、もっとそれ以上のことをしようと思ったり、しようとしたりしたら、かならず間違える。で、かならず違った神に到達してしまう。つまり、ほんとの人間の倫理をつくるのは、必然の行為だけであって、必然性がない行為は、全部それは違う。人間の行為の倫理的基準にならないっていうのが、ヴェイユの考え方、ヴェイユの倫理に対する、いちばん根本の考え方だと思います。



社会が変わり時代が移り「外側」が変わってしまったら、それが甚大な影響を及ぼすことはありうる

そうなったら、個人の力ではもうどうすることもできない

だから社会がどう変わるかよく考えたほうがいい

そうでないと、という場面も当然出てくる

そういう場面に直面しないなら自分の好きなことを職業にして、好きに生涯を送るのもいいとおもう

げんに、そういう人もいる

それで済むならそれでいいわけだ

しかしそれでは済まない時代に当面したら、

社会のことも一生懸命に考えたほうがいいに決まっている

普通、「やる」ことは「考える」ことより大切だとおもわれがちだが、

わたしはそんなことは信じていない

わたしが埴谷雄高さんに感心する点もそこにある

あの人は花田清輝との論争のなかで、クモの巣のかかったような部屋に引きこもっていたって革命家は革命家なんだ、と明言した

そこまで言い切った人はいない

世界中にひとりもいないといってよかった

埴谷さんは、クモの巣のかかった部屋でゴロゴロしていたって永久革命なんだと言い切った

考えることが大事なんだと断言した

そんなことをいったのは埴谷さんが世界で最初だとおもう

じっさい、からだを動かさなければダメだということはない

そうではなくて、考えることを構想する人が過半数を超えれば考えただけでも変わるのだ

この世界もこの国家も



悪とはなにか。それは善でないことだ。善とはなにか。習俗や習慣から高度な理念や教義や生存の仕方のなかに普遍的に存在している安堵にしたがうための行為だ。肯定を他者にすすめる行為だ。僧侶は戒律をまもり、修行を積み、経文を学び、脱俗の生活を重ねる。これは習俗が認める行為だという意味で善なる行為だ。それ故僧侶の習俗が認める行為に逆らって、けものや魚の肉を喰べ、妻帯し、修行をせず、経文を読まず、徒食する行為は、僧侶として習俗に逆らうがゆえに善行ではない。習俗の理念が善行と認めない行為は悪だ。

親鸞は習俗が僧侶と認めたものを、ほとんどすべて廃した。けれど破戒をすすめたわけでもないし、習俗に破戒の生活を認めよと言ったわけでもない。善悪の基準を理念から習俗までのどこかに求めることに根拠があるとおもえなかったのだ。理念から習俗にわたる範囲ではじぶんが善を択ぶか悪を択ぶかはどちらでもいい。おなじことだからだ。それはどちらがより自由かという相対的なものがあるだけだから、より自由な方を択ぶということにしかすぎない。法然は制誡の人だ。それは衆庶よりも自由でない場所にいたためにその分だけ倫理を必要としたからだ。親鸞は少くとも衆庶と同等なところまでじぶんの場所を移動していたから、一切の制誡も制約も必要でなかったといえよう。

悪には意図と無意図の区別がある。そして意図された悪にたいして浄土の真宗はどう振舞うか?親鸞が造悪論において当面した最後の問題はこのことだった。悪人が正機だという理念が正しいなら、すすんで悪を造ることは浄土へ近づく正機であるはずだ。親鸞の弟子と称する者たちから出てきた疑念と疑義はこのことだった。意図された悪でも、結果としてみれば浄土へ近づきやすい正機だ。そうだとすれは罰せられるべきは悪ではない。ほんとうは「意図」だけが浄土へ行けないほんとうの悪だ。衆庶はすべて利益を、地位を、熱望を「意図」して生きている。別な言葉でいえば、現世の人間世界は「意図」だけで出来ているといってよい。それは現世のもっている「悪」であり、衆庶はそれに染まってしまう。つまり何かを「意図」してしまうのだ。これは現世のもつ最大の悪だが、この悪を免れるたった一つの方法は、「意図」というものすべてを浄土の規模にあづけてしまうことだ。これが親鸞の到達した「自然法爾(じねんほうに)」だったといえよう。


「自然」とは<善>と<悪>とも、そのどちらともおもわないで、おのずからそうさせてしまう意志だ。意志の彼岸にある<意志>を指している。そうさせてしまうとはどういうことか。念仏者は救済をもとめて善悪の二つとも造ろうとすべきものでない。それなのに不可避的な内在性によって無上の場所と無上の解脱をもつようにさせてしまう本質力を意味している。無上仏とは形もなく色もなく、有るのでもなく無いのでもないが有るような何かである。決定的なことは現世の「煩悩具足の凡夫」に<意志>のかかわらないところに置かれた何かであり、現世的な規模における善悪とはちがったところへ横超する何かである。そんなものはあるのかどうか。せんさくすることはいらない。せんさくすればその瞬間から消えてしまう幻のようなものだと親鸞はいいたかった。あるいは揚棄自体を指していた。 


 また、あるとき「唯円房は、わたしのいうことばを信ずるか」と云われたので「おおせのとおり信じます」と申しましたところ「それならわたしの云うことに背かないか」と、再度云われましたので、つつしんでおおせの主旨をうけたまわる旨申し上げましたところ「たとえば人を千人殺してみなされや、そうすれば往生は疑いないだろう」と云われましたが、「おおせではありますが、一人でさえもわたしのもっている器量では、人を殺せるともおもわれません」と申し上げました。すると、「それならば、どうして親鸞の云うことに背かないなどと云ったのだ」と申され、「これでもわかるだろう。何ごとでも心に納得することであったら、往生のために千人殺せと云われれば、そのおりに殺すだろう。けれど一人でも殺すべき機縁がないからこそ殺すことをしないのだ。これはじぶんの心が善だから殺さないのではない。また逆に、殺害などすまいとおもっても、百人千人を殺すこともありうるはずだ」と申されましたのは、わたしたちの心が善であるのを「よし」とおもい、悪であるのを「わるい」とおもって「弥陀は、その本願の思量できない力によって、わたしたちを助けられるのだ」ということを知らない、ということを云われたかったのである。(『歎異鈔』一三)〔私訳〕

 

 

話の筋は似ていても、新約書の主人公のように、一切誓うなと云っているのでもなければ、おまえたちは明日の暁方、にわとりが鳴くまえに三度わたしを裏切るだろうと弟子たちに云いたかったのでもない。人間は、必然の<契機>があれば、意志とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、<契機>がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない、そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞のいう<契機>(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、<不可避>にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して選択した出来事は、主観的なものによって押しつけられた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な<契機>は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという<不可避>的なものからしかやってこない。一見するとこの考え方は、受身にしかすぎないとみえるかもしれない。しかし、人が勝手に選択できるようにみえるのは、ただかれが観念的に行為しているときだけだ。ほんとうに観念と生身とをあげて行為するところでは、世界はただ<不可避>の一本道しか、わたしたちにあかしはしない。そして、その道を辛うじてたどるのである。このことを洞察しえたところに、親鸞の<契機>(「業縁」)は成立しているようにみえる。

 

ここまできて、この現世的な世界は、たんに中心のない漂った世界ではなく、<契機>(「業縁」)を中心に展開される<不可避>の世界に転化する。理由もなく飢え、理由もなく死に、理由もなく殺人し、偶発する事件にぶつかりながら流れてゆく相対的な世界ではなく、<不可避>の一筋道だけしか、生の前にひらけていない必然の構造をもつ世界がみえてくる。