相変わらず減らない自殺者たち。
当ブログでも何度か取り上げて来た問題であり、国も深刻な社会問題として対策を練ってはいるが、一向に効果を上げることが出来ないでいる。
それは自殺を根本的に理解していないからである。
わたしの母も自殺をしているが、死人に口なしで、その真相を解明することは困難であり、状況判断で推測するしか手はない。
自殺を理論的に解説するならば「生きる指針を失った」これに尽きるだろう。
然し、何も人間だけが自殺するわけではない。
環境の悪化とともに、今では植物でさえ自殺をする。
こんな荒んだ世界で生きるよりも「死」を選んだ方が増しという訳だ。
そして更に加えるとすれば、希薄な人間関係、免疫力、防御本能の低下などが上げられる。
前記事の「君のいた夏」は亡くなった友人と、9月8日が45回目の母の命日だったことから、その二つが脳裏を過ぎった中から生まれた、謂わば「レクイエム」でもある。
フィリピンなど、一部の国では自殺者が殆どいない。
貧困であるがゆえに、死より生きることを優先するのだろう。
それだけ彼らは生きることに執着し、必死なのである。
生は執着心の塊でもあるから、それを捨てる勇気があれば誰でも自殺が可能。
裏を返せば、誰もが自殺する可能性を秘めているということだ。
自殺の特効薬など存在しないし、予防薬もない。
執着心には個人差があるから、それを他者がコントロールすることは不可能に近い。
「神」でさえその行為を止めることが出来ないのだから、不完全な人間には無理難題である。
しかしながら、人間は助け合うことが出来る。
死を考えている人間は必ず「SOS」のサインを発している。
それにいち早く気づくことが出来るかだ。
自分のことで精一杯で、相手のことまで考えている余裕がないというのが本音でもあるが、自分が一人では生きられないことを考えれば、予防は可能である。
それが唯一残された「最後の希望」でもあるのだから。