映画「おくりびと」について今更わたしが説明しなくとも、皆さん十分にこの映画の事は詳しいと思うので、詳細は割愛させて頂くとして、それだけでは面白くないので、ここはひとつ画像の間違い探しでもして楽しんで頂ければと思う。
観察力の鋭い人は直ぐに気付くと思うが、特に珍しい写真でもないので、素通りするとその変化に気付かないかも知れない。
さて、死を扱う映画は数多くある。
例えば黒澤明の「赤ひげ」伊丹十三の「お葬式」などが代表作品。
この「おくりびと」が何故、数々の賞に輝き大ヒットしたのか。
内容の善し悪しはともかくとして、この映画がから伝わってくるメッセージは「生きることの素晴らしさ」「命の尊さ」を率直に物語っているからである。
命を軽んじる現代社会の風潮にあって、失われつつある「尊厳死」を解り易く説いているのである。
人は誰しも「死」から逃れることは出来ず、遅かれ早かれ「死の門」をくぐり抜け、新たなる世界へと旅立つ。
わたしも30年ほど前に「おくりびと」になったことがある。
父が亡くなったことを電話で知り、田舎の藤枝へと向かった。
三日ほど前に会った時はまだ元気だった父であったが、今思えばあれは最後のあがきだったのかも知れない。
納棺の儀式(納棺師)は今でこそ職業として成り立っているが、昔は親戚や家族が執り行うものであった。
面倒なことは他人に任せてしまうと言う、核家族と個人主義が産んだ「すきま産業」なのかも知れない。
冷たくなった父の顔や身体を丁寧に拭き、死化粧までは出来なかったが、自分の父に対する思いを精一杯込めて、あの世へ旅立つ準備をすることが出来たと思うが、わたし自身の頭の中は真っ白な状態であり、涙ひとつ零すことはなかった。
周りから見れば、冷たい子どもだと思ったかも知れないし、随分苦労させられたから涙が出ないのも理解出来たかも知れない。
しかし、わたしの父に対する思いは次の日の火葬場で爆発した。
最後の父の顔を見た時、そして骨を拾った時、わたしは大粒の涙で顔をくしゃくしゃにしながら、号泣したのである。
その泣き叫ぶ声は天にまで届いたことだろう。
わたしが今ひとつだけ悔やんでいることは「母の死に目」に会えなかったこと。
葬儀にさえ出席しなかったこと。
母の死を知らされたのはわたしが10歳の時で、亡くなってから一年も経ってからであった。
その時はそれで良かったのかも知れない。
周りの大人たちは最善の方法を取ったのかも知れない。
母親の愛情を知らずに育った子どもに「母が亡くなった」ことを伝えたところでどうなるものでもないと思っていたのだろう。
父の「おくりびと」にはなれても、母の「おくりびと」になれなかったことが残念で仕方がない。
何れ自分も誰かに送ってもらう時が来る。
その時の顔は、出来れば笑顔と感謝の気持ちで溢れた死に顔でありたいものである。
