いじめと同様に児童虐待も社会問題になっている昨今。先日起きた長岡京市での幼児虐待事件、これらはほんの氷山の一角に過ぎず、表面化していない虐待は数多くある。児童相談所が殆どその機能を停止した状態で、親子の間に割って入るタイミングの難しさなどが浮き彫りになっているのが現状だろう。年々増え続けるこれら子どもが被害者になる痛ましい事件が何故起こるのだろうか。現代は情報化社会であり、物質的にも豊かで生活水準もある程度恵まれている環境でもあるが、その影で複雑さと共に希薄な人間関係に悩む大人たちが増えている。一見何事もないような日常の風景に突然ぽっかりと開いた僅かな隙間。それは人の心の闇が映し出す病める傷口なのかも知れない。親と子の関係、或いは夫婦間が上手く行かず、その苛立ちが一番弱い子どもに向けられるといった現実社会。世の中は常に弱者が傷付き、悲鳴を上げているにも関わらず、近隣同士の繋がりが薄い為誰もが傍観者という立場に置かれている。プライバシーを重視する社会では第三者の介入は疎ましく思われ、子どものSOSを察知しながらも、手を差し伸べることを躊躇させる悪循環が結果的に手遅れと言う現場を作ってしまうのである。親の言う事を中々聞かない子どもには何の罪もなくそれが子どもの姿であり、だからこそ子育ては難しい。しかし親と子は愛情という深い絆で結ばれており、何処の誰よりもわが子が一番かわいいはずなのだが…。そこには悩み苦しむ母親の姿がある。虐待だと分かっていてもつい手が出てしまう。そんな自分を抑えられない、育児に自信が持てずに一線を越えてしまい育児放棄に走る親も多いだろう。夫婦はお互いが助け合って子どもを育てて行くべきだが、子育てを妻に押し付け家庭を返り見ない父親の存在も問題である。悩んだ末に育児ノイローゼで、子どもを道連れに自殺などと言う最も悲惨な状況が発生する事も少なくないであろう。躾に暴力は必要なく言葉だけでも十分に躾は成り立つ。最もあまりにも言うことを聞かない時などは、軽く手や足を叩いたりもするが、痣が出来るような暴力は殺意としか言いようがない。私は子ども時代痣の絶えない時期を過ごした経験があり、大きな石で殺されかけたこともあったが、それは父が酒に酔っていたからであって、普段は優しい父親だった。しかし、その表裏が余りにも極端だったので酒を飲み始めた父親を恐怖の眼差しで見つめていたものである。そんな父の命日がもう直ぐやって来る。