母さん、聞こえませんでしたか、ほらいつも僕が歌っていたあの歌を。仕事に出掛け階段を降りる時母さんの後姿に向かっていつも歌っていた「俺は待ってるぜ」。三歳の幼い僕が一生懸命覚えた石原裕次郎の名曲ですよ。
でもあの時だけはきっと耳を塞いでいたんですね。黒っぽい服を着て大きなバッグを提げゆっくりと振り向きもせず階段の軋みと一緒に降りて行きました。母さん僕はいつもの通り帰ってくるものと思っていましたよ。
黒い後ろ姿だけを僕の脳裏に刻み込んだまま母さんは帰って来ませんでしたね。その五年後にあなたは自ら命を絶った。もう二度と戻らぬ人となった。酔った父が泣いているのも知らずに…。
(私小説「届かなかった僕の歌」より抜粋)