続「百里ヶ原の空」② | 新・発動機とともに

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6.4.18 (木)☁ 20℃


前回、4/15(月)の続編となります。


最近は🏍に一日搭乗すると、ど〜〜っと疲れが出て、オマケに今回は右🦶の親指が感電した様な感じです。

ピリピリ⚡・・・もしかして


これ、シンケ〜ツ〜かしら?


🌸に囲まれた「雄飛園」何度か訪れています。

往年の名機を展示しています。

遡ること昭和16年には、早くも独、英、米はジェットエンジンの実用化を始めました。
独の先進性、大英帝国の底力、米国の舐めんなよ!
日本は力及ばず。

耐熱合金やエンジン推力、耐久性が大きなカギでした。

独は昭和17年7月に、早くも有名なMe262が初飛行をしています。


米国では、昭和17年に初飛行をしたベルのXP59が失敗作に終わりました。
次作としてロッキ〜ド社が昭和18年に設計に着手し、昭和19年1月に初飛行をした、ジェット戦闘機P80が登場します。
その発展型がT33です。
設計主務は宿敵、ロッキ〜ドP38ライトニングと同じ。

T33の前段となったP80の別名は「シュ〜ティングスタ〜」日本語に変換すると「流星」です。
戦後のロッキ〜ドは「星」名のシリ〜ズが続きます。

昭和25年、半島での動乱が始まると、進駐軍のP80は翼端に大型の増槽を着けて、板付から対地攻撃へとバンバン飛び立って行きました。
対地攻撃では相当の威力を発揮しましたが、空戦では独の技術を分捕った後退翼のミグには勝てず。

この頃、米のファイタ〜符号は「P」から「F」へと変わります。

戦闘機は「F」に統一


T33

ベストセラ〜として、20カ国以上で長く使われます。

一昔前は、よく見ましたわ。

翼端の増槽が特徴的です。
練習機は「T」符号ですが、練習戦闘機と言う部類で、零式の練戦と同じ感覚です。
日本の運用では、12.7㍉2門を外してました。
特徴的な翼端の増槽は、翼の安定効果と翼下の空きスペ〜スが取れるため、多数の武装や更なる増槽の搭載が可能となり、長大な航続距離を得ました。

F86F
日本名「旭光」…

ジェットへの過度期とは言え、F80はミグ15や17に全く対抗出来ず、苦戦を用いられます。


🇺🇸は長年培って来た、高速の一撃離脱から制空戦へと変化して、独の資料を元に後退翼で設計したのがF86でした。
P51で有名なノ〜スアメリカン社のヒット作となり、一撃離脱から制空戦闘機へ、その設計思想は往年のマスタングと似たようなものです。

機首の12.7㍉が両側で6門
ミグキラ〜となり…




F86D↓
機首に大型のレ〜ダ〜ド〜ムを設けた全天候型で、アフタ〜バ〜ナ〜付のエンジンとなり、胴体が太くなっています。

機関砲は搭載してません。
↑その代わりとして、胴体下部に2.75㌅のロケット弾24発のランチャ〜を設けています。

尾翼には…
オジロ鷲、最初の配置が千歳なんでしょうね。

見学していると、何やら勝手に近付いて来ます。
なんじゃこれ〜〜〜?
自動の監視かと思いきや、ど〜も無人の草刈り機みたいです。
これは良い!

T2 ブル〜仕様 ↓
名門スリ〜ダイヤを筆頭に、富士重工、川崎重工、日飛、新明和、石川島…等々、往年のオ〜ル日本で各部を分担しています。
エンジンは無理だったのかロ〜ルス・ロイスをライセンス…

昭和40年にF86の後継機として検討を始め、昭和50年に配置された国産発の超音速高等練習機として、96機が量産されました。
独特の高翼は、兵装の搭載を容易にするためでしょう。
有事の際は実用機にもなり、その後のF1を前提に計画をしています。

F1 ↓

練戦のFST2改を発展させて、昭和52年に正式化され「支援戦闘機」として、77機が量産されました。

日本語は時に曖昧となり、どう見ても、空対空、空対艦、空対地、何でもござれの「戦闘攻撃機」です。
最初に配置されたのが、三沢と築城、列島の北と南です。
南北の広範囲をカバ〜出来る位置ですね。
海を這う様な超低空で接敵する対艦攻撃を得意とした訳も、何となく頷けます。

後継機となった現在のF2は、行動半径が更に延びて、ウラジオ、平壌、上海近くまで入ります。
例えれば、勝手に名付けると「ス〜パ〜陸攻兼制空戦闘機」みたいなものかと・・・
元寇は、近づくことさえ出来ないでしょう。

F4 ↓
時は冷戦の頃、当初は艦隊直掩の艦上機として開発されたもので、段々と大型化して昭和36年に米母艦に配置されました。


米母艦の念願であった、ミグに勝てる艦上戦闘機です。

近くで見ると大きい。
ダンプに乗っているような感覚とも言われ、その割には旋回性能も良いらしく、頑丈な機体は半世紀にわたり、列島防空の任に当たりました。
機体に余裕が有る為か、マイチェンの「Ⅱ」や「改」と近代化へのバ〜ジョンアップが可能でした。

操縦には艦上機らしからぬ多少のクセがあったようで、直線飛行が難しいとも・・・?
当時、国政では爆撃照準器を外すと言う無意味な議論が有りました。
今や敵基地攻撃云々となり、時代は変わったものです。

米国らしい機体で、本国では艦上機として海軍、マリ〜ンの他に空軍でも多数を採用しています。

使い勝手が良かったのでしょう。

5,000機以上が生産され、各国で使用されました。
国内では、まだ使っているのかと言われながら、最近やっと退役になりました。


RF4 偵察型 ↓
戦術偵察と言っても📷を撮るだけで済む時代ではなく、現代は様々な敵情のデ〜タ〜を収集する目的があります。

低空性能も考慮した偵察用ですが、いざ鎌倉のために機関砲を装備して、熱線追尾の空対空ミサイルも搭載可能でした。

F104 ↓
日本名「栄光」
米国のロッキ〜ド製、先方の名称では「スタ〜ファイタ〜」
星の名称は、かの会社のシリ〜ズとなっています。
昭和25年に開発が開始され、昭和31年に米本国でお披露目となります。

独特の形状です。
鉛筆の様な胴体に、デルタ翼でも後退翼でもない小さな直線翼の主翼とT字型の尾翼…
外観を見ただけで、この機体は軽量化と速度・上昇力・加速を主眼とした事が分かります。

日本では昭和37年配置されてから、昭和61年までの24年間にわたり防空の任に当りました。

米本国での採用は僅かで、NATOや日本で大量に採用をしています。
日本では高加速、高速度のインタ〜セプタ〜となる全天候型の防空戦闘機として配置されました。

火器管制装置等はその様な物を搭載しています。

西独などは高空の他にも対地攻撃まで想定して、多数の機体を損失しています。

採用前には、グラマンかロッキ〜ドかと言う、曰く付きの疑獄が有りましたが、当時の東西冷戦を考えると、核搭載の爆撃機は一大脅威で、猛ダッシュによる高空への迎撃が正解だったと感じます。

かっこいいなぁ〜!

着陸前の場周旋回で発する、独特の「クオ〜ン」と言う音が忘れられません。


世の中は何事にも反対、賛成が有り、その良し悪しや何だかんだも、今は各人の考えで手を上げられる良き時代となりました。
自由と平和を証明する様なものです。

一つの碑文が在ります。
「百里ヶ原空」
そんな時代がありました。

多分、手空き総員で、九州進出を見送ったものと想像し

ています。

かって、道楽だった我がジイ様、基礎教育を修了後、昭和19年に、この地へ配属されました。
まぁ〜その頃は、まだまだ純心な少年だったのかも知れませんが…?
下級兵の兄ちゃん達は、理由なく罰直を受け、飛行場一周を走らされ、腹を空かした日々、嫌な事も沢山あったようで、当時の事は殆ど話しませんでした。

ここから、鹿児島の第二国分基地(現、鹿児島空港の一部)へと繋がります。

つづく…