「東国三社」息栖のお社へ | 新・発動機とともに

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6.4.8(月)☁ 20℃


🌸が満開となりましたが、もわ〜んとした空模様が続いています。

やはり🌸は青空が宜しい。


先日、東国三社の一つを参拝して来ました。


息栖(いきす)神社…



由来…↓
武人の神「鹿島」「香取」の二社と関係が深く、「息栖神社」は古くから航海の安全を願うお社です。

「鹿島神宮」と「香取神宮」その昔は広大な「香取の海」の湾口に面した高台に鎮座してました。
お社の直ぐ下が海だった時代です。

「息栖神社」は湾口の中州に鎮座していましたが、今では陸続きとなり、標高1.4米の表示がありました。

当時は霞ケ浦の2倍ぐらいの「香取の海」が存在し、お江戸は姿さえ有りません。
利根川を東遷させたのは、遥か後となるお江戸の時代です。

陸路よりは船の方が大量輸送には効率的です。
西国への海路、東国の防備、更には蝦夷地への進出、内海の湾口は良港であり、位置的にも重要拠点だったのでしょう。


その当時の地勢は、武人の神「鹿島」と「香取」が湾口を挟さんで対となり、その中州に「息栖」と言う位置関係にあります。
不思議ですが、この三つのお社を結ぶと直角三角形になるそうです。


現在の地図↓

神々が鎮座した頃の霞ケ浦は、広大な内海であった「香取の海」の一部で、太平洋と繋がっていました。
時は流れ、気候や天災、気候の変化等により、何時しか広大な「香取の海」は徐々に狭くなって行きます。

その後、江戸の発展とともに、洪水から江戸を護るため、大利根が東遷されます。
一大土木事業です。
更に戦後、昭和の時代には、霞ケ浦の出口に逆水門が設置されて、大利根と繋がっていた霞ケ浦は淡水と化し、現代に至りました。
大利根の下流は今でも汽水域です。

あたくし、学者では無いので、詳しいことは分かりません。
以下は曖昧な内容です。

遠く大化の改新646年の頃、倭国が半島へ出兵し、百済だか新羅だかとの戦で苦戦して撤退し、お次は九州北部が唐の脅威に脅かされます。

任期3年の徴兵制が敷かれ、東国の兵達は三つのお社に祈願の後、船で北部九州沿岸を防護するため出陣しました。
鎌倉武士が大活躍をした「元寇」の遥か前の時代です。

諸国から徴兵された兵達は「防人」と呼ばれ、東国のこの地からの出陣は、「鹿島立ち」と呼ばれます。
内海から直ぐに太平洋、今で言う要衝の良港だったのでしょう。

しかし、防人が満期を迎えての帰還は、海路ではなく陸路だったそうです。
復員は徒歩…

道も橋も無きに等しい時代に凡そ千Kmの道程、東国へ無事に帰還するのは至難の業だったらしく、防人達は大変な時代です。

帰路は食も水も自給自足、究極のアウトドアでは無かっかと想像しています。

往路は船ですが、3年の満期が終わると東国まで歩いて帰れと、送る側は誠に勝手なものです。


戦乱の世は、昔も今も変わらないですね。

初めて参拝しましたが、大変に立派なお社です。


東国三社の歴史を感じます。





案内の通りに、一の⛩はかっての内海に面しています。↓
「鹿島神宮」「香取神宮」も同じく、一の⛩は当時の海に面しています。

参拝後、一の⛩に行ってみました。
小さな⛩の下は井戸で、不思議なことに、創建当時から真水が湧いていたそうです。
海辺なのに…
水は重要物資です。

その後、天下泰平のお江戸の時代になると、三社巡りの観光で賑わい、江戸への物資補給となった河岸の跡↓


現在、一の⛩は霞ケ浦の出口となる常陸利根川に面しています。
境内の碑文には…
「海原や沖つ潮合に立浪の鎮めがたきは心なりけり」
ふむ…何となく理解?
悪い癖で妄想が始まります。
広大な海の湾口が・・・

見える👀

数年前に訪ねた「香取神宮」
こちらは、武人の神です。
当時、朝廷から年に一度の勅使が来たのは、「お伊勢さん」と「鹿島」「香取」の三社だけだそうです。
その位置づけを考えると、当時の国の護りの重要拠点だった?

立派なお社です。


⚓が奉納されています。
3代目「かとり」





同じく数年前に訪ねた「鹿島神宮」も武の神です。

東国三社巡り、一日で行ける距離ですが、「息栖」のお社は初めて参拝しました。

遠い昔、防人達が出陣の前に東国三社を参拝し、任期3年の九州防備へと旅立つ「鹿島立ち」…

遠洋航海に出る艦名には、よく合っています。

以前、晴海埠頭で三代目「かしま」の出港を見たことを思い出します。


「息栖」は語呂が合わないのか格付けが違うのか。
鹿島、香取、香椎、橿原…
頭文字が「K」のお社です。


さて、🌸が満開となりました。
明後日には、やっと青空が戻ります。