ひいジイ様の走り書き 完 | 新・発動機とともに

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6.2.17 (土)13℃ ☁~☀


昨日の春嵐も去り、きゃんでぃ〜ずの歌が脳裏に浮かんで参ります。

当時、よくカセットテ〜プを回してましたが、今や懐メロです。

今頃どうしてるんでしょうね。

👩さん達も還暦を過ぎたか。


飛行第23戦隊(以下、23FDとします)の足跡に戻ります。

現地は何度か来ていますが🏍で遠征して訪ねてみました。


ひいジイ様の走り書き、自分の頭上をグラマンが飛んで行った事を、藁半紙になぐり書きで記載しています。

昭和20年2月16〜17日の2日間にわたり、関東一帯と静岡の一部が艦載機による初空襲を受けました。


その一例として、ここでは23FDを取り上げています。

ひいジイ様が目撃したのは、この地ではなく、遠く離れた場所です。


23FDの誕生から終焉までの概要を簡記します。

水戸東飛行場の「常陸教導飛行師団」から一部を派遣して、群馬の中島飛行機大田工場の防空に就いた「大田教導飛行隊」が前身となります。

教導とは、戦技研究の部隊を言いますが、この頃になると全てが実戦部隊となります。


23FDは、昭和19年10月30日、教導飛行隊を元に、大田飛行場で新編された飛行戦隊でした。その2ヶ月後の昭和19年12月2日、逓信省地方航空機乗員養成所の一つであった、印旛飛行場の拡張工事の完成に伴い、大田から印旛へと移駐して、東京防空を担う飛行戦隊の一つとなります。


飛行特性が全く違う、一式戦と二式単戦の混成と言う珍しい戦隊です。

本部、1中隊⇒二式単戦 20機

2中隊、3中隊⇒一式戦 20機


前回、気になっていた硫黄島派遣隊を調べてみると、12月1日に、一式戦12機が硫黄島に進出して、海軍の指揮下で1ヶ月間の船団護衛の後、帰還していました。

翌20年の1月19日から再び派遣され、全機を消耗して残った操縦者は、米軍が上陸直前の2月8〜11日に、辛うじて本土へ帰還しています。


B29の空襲も多くなり、一式戦では、偏西風に乗って高高度を飛行するB29の補足は難しく、上手く行って一撃、東京上空で一旋回すると、遥か房総沖まで機体は流されます。

偏西風の強さは、機体の巡航速度と変わらず、極寒の高高度を風に向えば、機体は凧のようになり。

一式戦では高度八千が目一杯で、高空一万米への上昇は困難であったと。


そして、2月16日〜17日の艦載機来襲を迎え、稼働全機が邀撃します。

陸海の上層部では、前日に艦載機来襲の公算大と敵情判断をしてました。

しかし、早朝の奇襲となり、その後は数に勝る強襲策に出て、2日間にわたり各地で空戦が続きます。


反撃の槍である館山空では、雷撃・爆撃隊が真っ先に空襲を受け、早くも地上で戦力を失しました。


陸軍の10飛師、海軍の3航艦もほぼ全力で迎撃しています。


その後、3月10日の東京空襲では、夜間飛行が可能な技量甲の操縦者が邀撃に上ります。


3月16日〜26日、九州小月から4FD二式複戦屠龍、10機が東京防空のため移動して配置。


3月28日、本部、1中隊が北九州防空のため芦屋に転進、4月12日に帰還。


4月頃からは、戦力温存のため迎撃せず。

合間をみての訓練飛行は行っていたようです。

5月中旬、特別攻撃隊、神鷲隊30機が配属され、九州へ進出。


終戦時は、一式戦15機、二式単戦20機、配属の一式戦特攻機15機が残存しており、終戦の日には稼働30数機が、最後の飛行を行いました。


話しは戻りますが、東京防空の主力として、対B29では練度、稼働率の高かった調布の244FD(三式戦)、成増の47FD(二式単戦)は、翌17日に10飛師から一時的に3航軍の所管に移動させ、温存策を図っています。


23FDの足跡を探訪します。

公園にあった平和の碑



かっての姿…
赤○印は確認された掩体壕のあった場所、今は広大な郊外の住宅地と化し、残存するのは一箇所だけ。
数えてみると約40基ほど有り、昭和の60年頃までは、全てが残っていたそうです。

碑文の裏には23FDと印旛航養、戦後の開拓団の記があります。

広大な敷地には、かって急造した3本の滑走路が在りました。
2,000米×2本 
随分前てすが、以前、探訪した時、たまたま地元の古老から、当時の話しを伺ったことがあります。
滑走路や誘導路の位置、暑くなるとアスファルトの滑走路は、くねくねと歪んでいたそうです。
終戦後は建築資材として、誰彼となく壊して持ち去ったと。

記録では凡そ三千人の作業員と地元住民、学生達の勤労奉仕、時には歩兵連隊まで出て、トロッコを敷き、ほぼ人力だけで作ったそうです。

測量、排水、舗装、掩体、急造の造りは免れなかったか…
更には飛行場大隊の兵舎が並んで、完成後には三千人余が駐留していた飛行場でした。

今や一つだけ残る無蓋の掩体壕
コンクリ〜ト製は各地に在りますが、この姿で現存するのは全国的にも珍しく、貴重なものと思います。

馬蹄型の裏側を掘って、その土を使って盛土をしています。
これも陸海で夫々の規格があり、何型とかある様です。




当時の滑走路跡は、新たな道となってますが、一直線の道が面影を忍ばせています。
写真奥、東の上空から来襲した艦載機との空戦が行われた空域と思われます。

かっての飛行場正門へと続く道、当時、田舎の小さな村に幅8軒の広い道は滅多に無く、道が往時を物語っています。
広い道は、今でも時に見かける海軍道路と同じかな。

かっての正門に在った椎木は、当時と同じ場所で大木となり、大切にされているのが何よりでした。
住民の方々には、この木が何の木なのか、全く分からないでしょう。


椎木を眺めながら、ここで軽い昼飯です。
メ○ボ防止のため、この程度で抑えてますのよ。

飛行場大隊の兵舎は、この辺りだったのかな…? 
いや違うな。もっと木々のある場所か。
戦後の開拓で畑になったとは言え、何となく飛行場の面影が残っています。
そう思うのは、あたくしだけかも知れません。

昭和の60年代、新たに新設された鉄路の駅は、かっての飛行場のど真ん中辺りです。
飛行機を模しているそうで、そう言われれば、エンジンに見えなくもない。

造成された公園の丘から北東を望むと、かっての掩体群の跡は、全て住宅地となってます。

以前、訪ねた時に、地元の方から聞いた話しでは、滑走路から続く誘導路が、何本かあったらしく…

そして、この飛行場には、もう一つの顔があります。
23FDが展開する前から、全国に十数ヵ所の逓信省の施設が在りました。
その一つ…↓

この制度、余り世には出て来ません。
逓信省、航空機乗員養成所
(以下、航養とします)
航養には、本科生と操縦生の二つがあります。
どちらも超難関でした。

本科生は国民学校を卒業後、5年間の修行で、旧制中学の普通学と、適正により操縦、航法、通信、機関の専門技術を学び、学費は無料、飛行士、整備士の免許を取得、卒業後は旧制中学卒と同等の学歴が取れ、民間航空へと進む道がありました。
更に選抜された者は、高等科へと進み、高度な専門知識を身に付けました。

操縦科は旧制中学3年で受験が出来て、1年間の飛行訓練で基本を習得した後、軍の飛行学校で半年間、専門分野の訓練を受けると言う制度でした。

ただし・・・
卒業と同時に予備役の下士官に任官するのが前提でした。
陸軍系の航養なら伍長、海軍系なら兵曹となるのも、当時の少年達には、的を得ていたのかも知れません。
何れは徴兵され、一兵卒からの時代です。
商船学校出の予備士官等と似ています。

当時、国民学校高等科を卒業後、旧制中学へ進学出来る者は少く、経済的に恵まれた家庭だけでした。
早くも13歳で家業や仕事に出て、働きながら地元の青年学校で学び、軍事教練などを受けていました。
初等科を出て、10〜11歳で働く少年達も沢山居た時代です。

将来は飛行士になり、新聞社、航空郵便、大日本航空…等々、民間航空への道が開け、更に予備役の下士官となる。
当時の少年達にとっては、魅力的に映ったことでしょう。

昭和12年、東京〜ロンドン間の欧亜連絡飛行で有名な、A新聞社の「神風号」(97式司偵の試作機改)は、世界的な記録を樹立して、当時の少年達の憧れの的であった事が、容易に想像出来ます。
操縦士は有名な飯沼飛行士…
安曇野の出身で、旧制松本中学から逓信省の委託生として、陸軍飛行学校で学び、大挙を成し遂げました。
安曇野に在る記念館、一度は訪ねたいと思っています。

民間航空の拡充とともに、全国に養成所が開設され、教官、助教は退役か予備役の軍人で、日常は軍隊式そのもの。
即戦力として軍から目を付けられた全国の航養は、後に海軍系と陸軍系の半々に分かれます。

しかし・・・
戦局の推移とともに、待っていたのは、卒業と同時に予備役下士官に任官、即日招集でした。

陸軍系は下士官の飛行学校へ
海軍系は予備連習生へ
(予科連の一つで、予備連と呼ばれました)

1期生は17〜18歳で卒業し、既に練習機による基本操縦を修得して、民間飛行士の免許を有しています。
飛行時間は既に300時間余、練習機での編隊飛行、特殊飛行、夜間飛行、航法、電信、法令、整備と、一歩抜きん出ていました。
実用機の教程に時間はかからず。

俗に「腕の航養」とも呼ばれました。

中には特攻隊で比島や沖縄へと


そして、終戦の連絡をするべく南方等の各地に飛行した緑十字の機体は、航養出身の操縦員が

多くいました。

戦後の航空再開で、旅客機の操縦桿を手にした方々も沢山います。


2月16〜17日は、関東一円、静岡の一部に、艦載機の大群が押し寄せ、2日間に渡る航空基地への激しい攻撃と空戦が行われました。

ひいジイ様やジイ様、バア達が、艦載機のグラマンを初めて目にした日です。


その後、関東一帯では、硫黄島から飛来するP51やP47が、我が物顔で跳梁する事となります。


長々となりまして…m(__)m


完…