ひいジイ様の走り書き その1 | 新・発動機とともに

新・発動機とともに

ご訪問ありがとうございます。

6.2.13(火)16℃ ☀


南の風、風速8米

日中は春の陽気でした。

暖かくなるのは結構ですが、今年も辛い季節がやって来ました。

粉は舞い降りた・・・😷

「はくしょい〜ん!」


久々に戦史を訪ねます。

79年前の昭和20年、2月16日〜17日の2日間、艦載機による初の本土空襲がありました。

硫黄島上陸の前哨戦として、関東一円の航空基地と中島飛行機の太田、武蔵野、小泉工場を目標としたものです。


🇺🇸では⇒OPジャンボリ〜

母艦16、戦艦8、巡洋艦15、駆逐艦77、艦載機1,200機

概要はWikiに出ていますが、母艦を中心に5群で編成した🇺🇸艦隊は、房総沖の僅か60海里まで接近します。

🇺🇸艦隊へ反撃さえ出来ず。


2日間にわたり、早朝から終日、何波にもわたる艦載機が、次々と関東各地に飛来します。

母艦を発ったのは、グラマンやシコルスキ〜の戦闘機が主で、従が爆撃機、飛行場制圧、航空機工場の爆撃、更には航空戦へと。

房総沖60海里(凡そ100Km)まで接近、編隊を組む時間を入れても、飛行機ならば目と鼻の先です。

パ〜ルハ〜バ〜は、200海里(凡そ360Km)の間合でした。


小さな特設監視艇(漁船)は撃沈され、房総の電探も補足不能、人員監視哨が発見しても、低空を高速で飛来する艦載機では既に遅かりし。


今も押入の中に、ひいジイ様がその日の記録として、なぐり書きした藁半紙が1枚有ります。

当時、50代のひいジイ様は、写真でしか知りません。


これが、また読みづらい。

読めません。

辛うじて…


「ワガ○○○町の上空ヲ、グラマン2機がツウカセリ…○○ニ報告セリ…」その他諸々


町内会の真上です。

初めて目にしたグラマンに、興奮したことは間違いなく、だから捨てずに残っていたのかも。


当時、ひいジイ様が定期購読していたグラフ紙には、🇺🇸機の名称や性能、B29の予想図まで、ほぼ正確に掲載されています。

まだ本土空襲の前ですが、🇺🇸機を全く知らなかった訳ではなく、庶民にも程々の知識は有ったものと思います。


2日間の空襲で、関東上空では数多くの空戦が行われました。

幾つかの手記を目にしますが、空や地上でご本人が体験した、生々しい手記があります。


その一つ

二十数名の証言…

戦後の生活も落ち着き、戦友会の有志で綴ったものです。

2月16〜17日の出来事を中心として、地元住民とのふれ合いや飛行場での日常、特別攻撃隊の九州への進出、終戦の日の出来事、等々がよく描かれています。
特性の全く違った、一式戦「隼」と二式単戦を乗り分けて使っていた、珍しい飛行隊でした。

戦隊長は、大陸、マレ〜、蘭印、ビルマ、ニュ〜ギニア、比島と、聞いただけでも過酷な空を経験しています。
この日、相手がグラマンなら隼の方がよいと、真っ先に離陸して目前に迫る敵編隊へ単機で挑みます。
飛行場上空で無念にも・・・

現地では、目前に来ているのに、邀撃から発進待て、更に邀撃と二転三転します。
公式記録には出て来ない内容かも知れません。
空襲の合間をみて、残った機が邀撃に上ります。

関東上空では、陸海軍の戦闘機が邀撃に上り、次々と空戦が行われ乱戦模様となりました。

この飛行戦隊からは、硫黄島にも派遣隊を進出させていますが、その後の詳細は不明です。

記録と言うものは、時に後から付いてくる場合があります。

現地の状況、時系列の違い、様々な証言、現実、混乱の中では仕方が無いのかも知れません。


○時○分、飛師から邀撃命令…

一転して発進待て…

ところが現地では、そんな話しは一切聞いていない。


仕事でも報告書などは、自分達の良い方へと書くのが大勢で、その上司は、更に話しを倍に膨らませます。

さして困難でもない事案が、いつの間にか、これこれ苦労して、これだけの大きな成果がありました。

よく有る話しです。


飛行時間が数千時間でも、助教の期間が長いため、実戦には無理で、二百時間の若手の方が実戦向きだったとか。


ノモンハン以来のベテランも、まだまだ多く居たが、士気が低くなり、若手を頼りにしていたとか。

(ビルマやニュ〜ギニア、比島の過酷な航空戦を見れば、そうなるものと思いますが…)


ニ単の上昇力には、かのグラマンも追従出來なかったと記してありました。


つづく…