樹齢1,300年、周長13米の御神木 | 新・発動機とともに

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2.11.2, (月)  🌤️~🌧️予報

昨日の休みは、とある神社に参拝し、杉を見学して来ました。

標高30米、沼の湖畔に近い高台の一角に、お社と森があります。
うっそうとした広大な森は、多分にこのお社の力を示しています。

近郷18社の惣社、やはり由緒あるお社です。古い古い日本書記の頃からでしょうか。
ここまでは、普通なんですが・・・
先ずは参拝をします。


ここに、東国一と伝わる杉がありまして…


あたくし、初めて目にしました。
最初に出た言葉は・・・

「うわ~~~~!」w(゜o゜)w

周りから聞こえる言葉も
「うわ~~!」とか「すごい~!」とか皆さん全く同じです。
今頃になって、日本語で「うわ~~!」イコ~ル「凄~い!」ことの意である事に気が付きました。

幹周8米、樹高40米、推定1,300年
昭和10年に県指定となったようです。

1,300年前と言えば、日本が律令制の国造りを行い、間借りなりにも国家としての形が出来た頃でしょうか。

幹回りを一周して
「うわ~~~」w(゜o゜)w
でも、屋久島の幹間16米、推定2,700年は、これの倍ぐらいでしょうか。
あちらも海底火山の大噴火で一度は御破算になっているはず。

こちらも、台風、火山活動、地震、雷、更には人の手を乗り越えて残ったのは、神社と言う場所が一番の理由かと思います。

上を見上げて
「うわ~~~!」w(゜o゜)w
感嘆の声しか出て来ません。

境内に碑文がありました。
珍しい表記です。


裏面を見ると、明治37、38年戦役とあり、この郷から出征した5名が凱旋したことを記しております。

明治43年の建立ですから、当時、この辺りでは「明治37.38年の戦役」と言うのが一般的であり、「日露戦争」は後の言葉だったのか?
多分、佐倉の2連隊(後に歩2は水戸へ移動)でしょう。

当時、この辺りの産業は農業と湖畔の漁業ぐらいです。
凱旋した父親の子供達は、明治~大正に産まれ、やがて30年後の昭和の戦乱に遭遇する年代となります。
親子二代にわたり、動乱の時代を経験します。


二週間もすれば、色鮮やかに美しく…

「昔、昔、その昔、椎ノ木林のすぐ下に・・・」
「これこれ杉の子起きなさい・・・」

昭和19年に制定された、戦時下の子供達の歌です。
戦後に3番以下の歌詞が改訂されます。
作詞は有名なサ◯ウ ◯◯◯~

後の「小さい秋」とか「長崎の鐘」とかも同じ方です。

最近、国営📺で朝のドラが流れていますが、珍しく興味深く見てます。

「これこれ杉の子・・・」
3番以下が戦後に改訂されたのは…
歌詞の中身を読むと、戦争で父親を失った子供達を鼓舞するもので、身体を鍛え、大きくなってお国のために尽くせと言う内容になっています。

まぁ~当時の国策とは言え、子供達まで巻き込むものでした。
戦後も数々の名曲、叙情歌や詩を作ってますが、陰となる部分です。

あたくしもそうですが、考えれば人間は勝手なもので、時にカメレオンのように変わります。

現実は違うなぁ~と思いながら、まぁ~見せてナンボの📺だからねぇ~と思いつつ見てますのよ。