桜に想う頃  | 新・発動機とともに

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2.4.6 (月) ☀️ 17℃

寒い朝ですが日中は暖かくなりそうです。

あれは◯◯年前…

3発のトライスタ~に搭乗すること2時間半、初めてこの地に立ちにました。

まだ右側通行の時代で、道路は米国統治下で整備されていました。
潮風に傷んだ錆びついた🚗が沢山走っていたのが、今でも目に焼きついています。


その頃の代表的な場所と言えば、南部の丘陵、再建された一つの門、青い海ぐらいでした。
時代はサイゴンが陥落し、長いベトナム戦も終盤となった頃です。
宿泊したコザでは、血気盛んな米兵が沢山いるから、夜は絶対に外出するなと釘をされました。

その後、平成の時代になってから、二回ほど訪れましたが、日本人より海外の観光客の方が多いなぁ~!

今では南部の戦跡を訪れる方も少なくなり、遠い場所となっておりました。

初めて島に行った時のこと、「ひめゆりの塔」へ行く道端で、⛱️のオバサンから一輪の花とともに、並べてあった一冊の写真集を買いました。
中には英文と日本語の表記があり、 悲惨な沖縄戦の写真の数々が…

「何だかなぁ~」とやるせない気持ちになったことを思い浮かべます。

特に陸上では、日米双方の間で逃げ場を失った住民は、否応なしに悲惨な戦闘に巻き込まれます。
この場に非戦闘員はありません。
動くものには容赦なく弾の雨が降り注ぎました。
世界の何処かで、今でも変わることなく続いています。

「鉄の暴風」とも形容された、米軍の凄まじい火力が襲いました。

後の無い日本軍の攻防も凄まじく、戦車への肉薄、一つの丘を巡って米兵も次々と倒れます。

海では制空権無き水上特攻 
大和沈没す。呉にて↓

空では、九州各地や台湾から特攻機が次々と出撃しました。
米艦隊の損害も決して少ないものではありません。
余りの損害に、この海域からの撤退寸前まで追い込まれました。

復元されて飛行する零式艦戦
ある日の茨城の龍ケ崎にて↓


鹿屋にて大艇


知覧にて一式戦 「隼」


復元された三式戦…「飛燕 」 神戸にて


鹿島臨海コンビナートの一角にある「桜花」錬成の地  神ノ池空の跡地


今も残る俺体壕、一度母機から放たれたら、生還を期し得ない非情な空でした。
「桜花」
突入前に、多くは速度の遅い母機の陸攻とともに果てます。

今や平和な名所ですが、75年前には米の上陸軍は海を埋めつくし、日米双方の大きな犠牲とともに、平和な島は否応なしに島民をも巻き込んで、戦争と言う殺戮の場となりました。

万座毛にて


誰かが珊瑚で描いたのか…
凄く記憶に残ります。

75年前の今頃、一つ一つの丘を巡る正に血で血を洗う攻防の最中に、老人、子供、女性、非戦闘員たる多くの住民が巻き込まれました。

今頃の時季です。

さて、コロリの待っているお江戸に到着です。
今日から名前ばかりのテレワ~クが始まりましたが、単に何人かやっているぞと言う形だけですわね。

全く意味がありませぬ。
上が阿保やからの名言です。

負け戦になるなぁ~!
今日も突撃でございます。