🌀No-19がストライクゾ~ンに入りました。これはヤバそうです。
お国は相変わらず危機感を感じることもなく、報道も至ってのんびりです。
猛烈、猛烈と騒いでいるだけ・・・
勢力、コ~ス、大潮と役者が揃い、被害が出るのは目に見えています。
X日マイナス3、あたくしの独断専行で、本日、ここにヒジョ~事態を発します 。
トップの方々は、「国をあげての、この闘いに…」ぐらいは言っても良さそうなものですが、何とかなるべ~~ぐらいの感覚です。
我が身は自分で護りましょう。
さて、5日の土曜日の続きとなります。
何気ない甲板上…
終わりの見えない灼熱の海、極寒の日本海、その他諸々の長期の任は大変なご苦労があると思います。
近くにコンビニなんぞは在りませんわね。
この狭い空間に24時間、交替で働く訳ですから、あたくしなんぞは三日と持たないでしょう。
短魚雷…↓
酸素魚雷の実物には、その大きさに圧倒されましたが、その1/3ぐらいでしょうか。
古典的ですが、今でも恐るべし潜水艦キラ~でしょうね。
話しは変わりますが、昔から艦長の腕は接岸で解ると云われています。
大艦を一発で定位置に決めるのは、熟練の技です。
あれ~?行き過ぎた~では、様になりません。
あたくしも真似をして、車の車庫入れは一発を狙ってますが、若い頃と違って、最近はど~もピタリと決まりません。
必ず斜めに歪みます。なんで?
その内、前進後退を誤り、コンビニ突撃をする前にCubにしましょう。
不肖、あたくし、一度だけ超小型船の舵をとった経験があります。
勿論、横に居る船長さんの指示を仰ぎながらです。
先ず、真っ直ぐに航行することが出来ません。
風や潮、船の癖、色々あるのでしょうが右や左と常にヨタヨタ状態でした。
ブレ~キなんぞは当然ながら有りません。
あれれ~~~停まらねぇ~~わ!
行き足と言うのでしょうか・・・
船長様の後進一杯で事なきを得ます。
船長さんは⇒ニタニタしておりました。
湾内でしたが、反航船や横切る船は、知らぬ間に、あれよあれよと近づいて来ます。交差点の右直に似てます。
超小型でもこんな状態ですから、大艦となれば、これは大変なものでしょうねぇ~(+_+)
戦後、米国の意を反映して、対潜戦に特化した日本の十八番です。
その先生は、米海軍では「31ノットバ~ク」と呼ばれた、かっては宿敵の米水雷戦隊を率いたバ~ク大佐でした。
31ノット、高速です。
命令があれば常に全速力での例えですね。燃料が持ちませんから…
そのバ~ク大佐殿、戦後は米海軍のトップに立ちます。
先の大戦では、日本の海上護衛は後回しとされ、多大な犠牲となりました。
大西洋での英独戦の教訓に学ぶでもなく、海上護衛の軽視は補給が断たれる事を意味します。
国力の限界と日本的な思考が強くあったと感じます。
地球儀を俯瞰すると、海の広さは一目瞭然です。
能書きが長くなりました。m(__)m
船にとって応急は最重要の一つかな。↓
物騒な物を積んでおります。
「いかづち」三層目の天守↓
Zの一旒は偶然ではないですよねぇ~
帰路の公園を通ります。
米国は終戦まで、日本以上に戦艦の建造を継続してました。
決して、日本だけが大艦巨砲ではありません。
そして、公園の片隅にひっそりとありました。
賑やかな会場と違って、訪れる方は疎らです。↓
あたくしがガキの頃のお話し…
「俺は山城に乗っていた。」と言うオッサンがおりました。
分厚い胸板と丸太の様な腕、がっちりとした身体が物語ってます。
「鬼の山城…」と云われ、新兵さんには心休まる日が無い、辛い日々であったことでしょう。
詳細は省きますが、比島スリガオ海峡で僚艦の扶桑とともに、壮絶な最後を遂げました。
凡そ1,500名の乗員中、生還者は僅か10名です。
あのオッサン、その前に異動か満期で退艦したのでしょう。
賽の目と同じ運ですね。
特徴ある艦橋は正に浮かべる城で、航行の姿は艨艟そのものです。
もしも・・・はありませんが…
山城、扶桑に30ノットの艦速があれば、縦横無尽だったかも知れません。
軍港の門前で栄えた通りは、今でも米国の雰囲気が残っております。
今度の予行と本行は、🌀のコ~ス上に入りました。
うねりと波高10米、風速40~60米、狂乱怒涛の実行は厳しいでしょうね。
次は3年後かな・・・
次回は、プラチナ券を頑張ってみるか。
あたくしも再びの荒天準備をします。
瞬間風速60米ね・・・(ノ-o-)ノ┫
完